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KENJI MIYAZAWAの「The Sense of Wonder」

 1月23日、新刊『自然をこんなふうに見てごらん 宮澤賢治のことば』(山と渓谷社)が、無事に校了となりました。

 昨年の日記を開いてみると、お話をいただいたのは4月13日、宮澤賢治のかつての恋人、大畠ヤスさんのご命日でした。

「宮澤賢治の自然にまつわる言葉を集めて、1冊の本を作ってみませんか」

 というご提案は、そもそも虫をはじめとする自然のすてきさを、たくさんのひとに伝えたいと考えてエッセイストを志したわたしにとって、文章を書く原点とも言える内容で、願ってもないことでした。

 ふたつ返事でお引き受けしたのは、言うまでもありません。

 ここ数年は、主に宮澤賢治の恋について発信していましたが、それも、賢治の自然の言葉を正確に理解したいという思いに端を発しています。

 わたしから見る宮澤賢治は、同じ岩手の自然を見つめ、こころに映った景色や現象を言葉に残していった、言わば「自然を書くこと」の先輩でした。

 ですから、賢治がその作品に恋を隠していて、恋人を野の花などに例えているとすれば、そのトリックを明らかにしなければ、野の花そのものへの思いを、正確に読みとることはできないと思いました。

 しかしながら恋というテーマは、自然を易しく伝えるという立場で文章を書いていたわたしが、「宮澤賢治」というジャンルに向き合うきっかけともなったのでした。

 わたしはそこで、宮澤賢治をめぐる言論の世界には、「定説」があり、それを決め、また守るための議論が交わされていることを知りました。

 もとよりわたしには、宮澤賢治というジャンルで持論を展開するつもりはありません。

 ただ、わたしが賢治の恋を調べてたどり着いたのが、

「宮澤賢治は大畠ヤスさんという女性と相思相愛の恋をしていて、その思いは『春と修羅』をはじめとする作品のなかに散りばめられている」

 という、それまでの説とは異なる考えだったために、宮澤賢治に詳しい皆さまからも、少しずつご意見をいただくようになりました。

 ヤスさんの存在が、すっかり消えていたことから、多くの方に知ってもらいたいと願い、つい声高になったのは否めません。それでも、宮澤賢治というジャンルのなかで、多少なりとも議論を引き起こしてしまったのは、まったく不本意なことでした。

 しかし、文章を書いて発表するという行為は、ほかのひとに読んでもらうことを前提としているのですし、ひとはみな異なる思考や感性を持っているのですから、さまざまな感想を受けるのは、言わば当然の出来事です。

 わたしの考えに不備が見つかったときは、ご意見をありがたく受けとめ、そのたびに軌道修正して進んできました。

『新版 宮澤賢治 愛のうた』(夕書房)は、おかげさまで版元在庫がなくなりました。

 そうして紆余曲折はありましたが、宮澤賢治の恋について、わたしは読み解きを終えています。

 これから賢治を語るときには、相思相愛の恋を経験していたひとりの青年として、当たり前に書いてゆくつもりです。

 声高には叫ばず、粛々と書いていって、そのうえで、わたしの考えにご納得くださった方が、「ああ、そんなこともあったかも知れない」と思い、ご自身が賢治作品に触れるときの参考にしてくだされば幸いです。

 ひとつだけ申し上げておきたいのは、賢治の恋を読み解く過程で、いくつか頂戴したご意見のなかには、意図的な誤読と判断せざるを得ないものをはじめ、過度に攻撃的と感じられる内容が含まれていたことです。

 そのような言論に触れるたびに、こころが疲弊するのを感じました。

 事実、ご自身の考えに反論を浴び、こころを病んだ方や筆を折った方、いのちを絶とうとされた方までおられたことを知りました。同じように苦しんだ経験のある方は、たくさんおられるでしょう。

 異なる考えを持つ他者に、人格攻撃とも言える圧力をかける行為は、執筆活動はもちろん、こころの健康、いのちそのものを脅かす可能性があることを、忘れてはならないと思います。

 ものを書く人間は、どんな声にも動じない強靭なこころを持って、書き続けていかなければならないのでしょうか。

 それは違うと、わたしは思います。

 ものを書く人間にはむしろ、小さな声にも柔らかに反応し、こころ震わせる感性こそが必要ではないのでしょうか。

 自然界から声なき声を拾ってきて、ひとの言葉にしようとするならなおのことで、宮澤賢治は、まさしくそんな感性を持ち合わせていたのだと、その自然の言葉をまとめ終えてみて、つくづくと思うのでした。

 自然界は、あらゆるレベルで多様であることが望ましいと、いまでは広く理解されています。

 したがって宮澤賢治をめぐる考えも、多様でよいのだと考えます。

 宮澤賢治というジャンルを愛している方々が、慣れ親しんできた宮澤賢治像や定説に基づいて作品を読むのは、むろん意味のあることでしょう。

 と同時に、自然という視点から新しい宮澤賢治像にたどり着くことも、さらに斬新な視点からユニークな賢治像が語られることも、賢治をめぐる世界が多様になり、その作品が広く読まれるとすれば、決して悪いことではないはずです。

 いみじくも、賢治は「銀河鉄道の夜」のなかで、茶色な目をした女の子とジョバンニに論争をさせています。

「そんな神さまうその神さまだい」

「あなたの神さまうその神さまよ」

 すると女の子といっしょにいた青年が尋ねます。

「あなたの神さまってどんな神さまですか」

 青年の言葉を借りて、わたしは問います。

「あなたの賢治さんって、どんな賢治さんですか」

 ほんとうの宮澤賢治はたったひとりですが、作品から受けとる宮澤賢治像については、それぞれに異っていてもいい。

 なぜなら作品を映す鏡は、読者ひとりひとりのこころで、そのこころもまた、自然であり多様だからです。

 新刊の『自然をこんなふうに見てごらん 宮澤賢治のことば』のなかの宮澤賢治は、ひとりのナチュラリストです。

 祈りを込めて、あえて大きなことを言うと、賢治の残した自然の言葉を、「KENJI MIYAZAWA」の「The Sense of Wonder」として、広く世界のひとにも読んでいただけるようになるのが、いまの夢です。

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 なお、ひとつの考えを定めるべき場面においては、さまざまな考えが公平に出され、少数の意見も掬いとったうえで、よりよい判断がなされていくことを希望しています。

『自然をこんなふうに見てごらん 宮澤賢治のことば』については、山と渓谷社のnote「ヤマケイの本」でも情報発信されています。よろしければ、下の写真をクリックして、リンク先もあわせてご覧くださいませ