宮澤賢治 / 宮澤賢治 百年の謎解き

宮澤賢治はいつ『春と修羅』を書き始めたか

 大正10年12月、花巻農学校に教師として就職した宮澤賢治は、近所の蕎麦屋の長女で小学校で教師をしていた大畠ヤスさんを見初めます。

 ふたりの恋については、大畠ヤスさんの姪ごさんからご証言をいただいています。遠い記憶で、細部ではおぼろになっていた部分もありましたが、「ふたりが恋をしていた」という根本的な部分をも否定する理由は、わたしには見つけられないのです。

 そしてその恋を、賢治は心象スケッチ『春と修羅』のなかに記録していました。

 岩手の野山でヤナギ類が芽吹き、美しい銀毛に覆われた花芽が見られるころ、賢治は『春と修羅』執筆の思いを固めていったものと、わたしは考えています。

『春と修羅』を味わいながら、この美しい季節を過ごせることは、賢治の恋を知る者の贅沢ではないでしょうか。

レコードコンサートで生まれた恋

 賢治は就職すると、大好きなレコードに給料をつぎ込みますが、花巻女学校で音楽の教師をしていた藤原嘉藤治と親しくなると、ふたりでレコードコンサートを開催するようになります。

 レコードコンサートは、男女がともに音楽を楽しむという、大正時代には画期的な集まりでした。

 ヤスさんが勤める花城小学校からも、5~6人が参加したと伝えられます。

 賢治とヤスさんの恋は、レコードコンサートによって、密かに育まれていったものと思われます。

 そのころの賢治が、にわかに書くようになったのが、「冬のスケッチ」です。

「冬のスケッチ」は、文語と口語の入り混じった数行の詩が、いくつもいくつも連なって、ひとつの長い詩を形作っているのですが、残念ながら、その全貌を正確に説明することはできません。

 なぜなら「冬のスケッチ」は、原稿の一部が失われているうえに、現存する400字詰め原稿用紙49枚は、書かれた順序が分からなくなっています。それらを正しく並べ変えようとする作業は困難を極め、結果として全集には、宮澤家に保管されていた順序のままで収録されました。

 ですから「冬のスケッチ」は切れ切れです。

 しかし、その切れ切れの言葉の連なりのなかに、大正10年の冬、レコードコンサートを開くようになったころの、賢治のこころを読みとることは可能です。

ひたすらおもひたむれども

このこひしさをいかにせん

あるべきことにあらざれば

よるのみぞれを行きて泣く

「冬のスケッチ」の大きなテーマは恋です。

 これはあくまでも推測ですが、その一部が消失している理由のひとつは、恋が記されていることにあるのかも知れません。

日曜日にすること

 激しく揺れ動く心情が記された「冬のスケッチ」のなかで、そこだけぽっかりと優しく、柔らかな光に包まれているような一節があります。

 ご紹介しましょう。

日曜にすること

運針布を洗濯し

うん針を整理し

試験をみる

それから つばきの花をかき

本をせいりし 手げいをする

   とノートのはしに書けるなり 

 ヤスさんは、花城小学校での勤めを終えたあと、蕎麦屋の店先に出て働いたり、幼い妹たちの世話をしたりしていました。

 学校の仕事と、家の手伝いを両立させるのは、容易なことではありません。運針布の洗濯や試験の採点など、日曜日にしなければならないことが、ヤスにはたくさんあったのです。

 それでもヤスは、土曜日のレコードコンサートに参加していました。音楽に触れるひとときは、忙しい毎日を送っているからこそ、豊かでかけがえのない時間だったでしょう。

 賢治は、ヤスのノートの走り書きを見て、ひとり、小さく微笑みました。

(やることが山ほどあるのに、来てくれているんだな……)

「日曜日にすること」に描かれているのは、ヤスさん、そのひとであったと、わたしは考えます。

宮澤賢治を詩人にしたもの

「冬のスケッチ」の前、賢治は詩を書いていませんでした。

 恋をして、切ない思いがこころにあふれたことが、賢治に詩を書かせた大きな理由でしょう。

 恋が賢治を詩人にしたと言っても、過言ではありません。

 やがて「冬のスケッチ」は、『春と修羅』へと形を変えてゆくことになります。

 たとえば「冬のスケッチ」のなかには、つぎのような数行があります。

あまりにも

こゝろいたみたれば

いもうとよ

やなぎの花も

けふはとらぬぞ。

「やなぎ」とは、川辺などに生えるネコヤナギのことでしょう。

 冬のあいだ、その芽は固い殻に覆われていますが、春の気配を感じるころ、ほかのどの木よりも早く、その殻を脱ぎ捨てます。

 殻のなかから現れる花芽は、なめらかな銀毛に覆われていて愛らしく、輝きを増してきた早春の川面によく映えます。

 いまがどれほど寒くても、ネコヤナギの花芽は、確かに春が近づいている証しです。春を待ちわびた岩手の人びとは、それをことのほか好むのです。

 このころ、賢治のよき理解者であった妹のトシは、病の床に伏していました。ネコヤナギの花芽を持っていけば、トシがどんなにか喜ぶことでしょう。

 けれども賢治はこころが痛んで、川へ行くことができません。

恋と病熱」が『春と修羅』のはじまり

 では次に、『春と修羅』に収められた「恋と病熱」をお読みください。

   恋と病熱

けふはぼくのたましひは疾み

烏さへ正視ができない

 あいつはちやうどいまごろから

 つめたい青銅の病室で

 透明薔薇の火に燃される

ほんたうに けれども妹よ

けふはぼくもあんまりひどいから

やなぎの花もとらない

 うしろ3行の内容が、先に引用した「冬のスケッチ」の1節と一致していることは、一読すれば明らかです。

 そしてこの一致は、「恋と病熱」が「冬のスケッチ」と『春と修羅』の接点であることを物語っています。

 賢治は『春と修羅』において、自らの作品を「詩」と区別し、心象を「そのとほり」に写しとった「心象スケッチ」であると主張しました。その「スケッチ」という手法は、「冬のスケッチ」を書くなかで固まっていったものなのでしょう。

 さて、「冬のスケッチ」は書かれた日づけを特定することができませんが、「恋と病熱」には1922(大正11)年3月20日の日づけが添えられています。

 この日づけはまさに、岩手の野山でヤナギ類が冬芽の殻を脱ぎ、銀毛に覆われた花芽が露わになる季節と一致します。

 この日づけから「冬のスケッチ」と『春と修羅』の関係を考えると、大正10年の少なくとも12月ごろから、文語と口語の入り交じった文体で書かれ始めた「冬のスケッチ」が、明けて大正11年の3月ごろから口語体のみとなり、これ以降の作品は『春と修羅』に収められていったと考えられます。

 誰に見せるともなく思いを綴っていた「冬のスケッチ」から『春と修羅』へ――。

「恋と病熱」は、賢治にとって大きな転換点となる作品です。

賢治自身が活字にしている意味

 賢治ファンはご承知のとおり、『春と修羅』は1924(大正13)年の4月、賢治の自費で出版されました。

 賢治の死後、残された原稿用紙の筆跡を判読して活字にされた作品が多いなか、『春と修羅』や『注文の多い料理店』など本人の手で活字にされた作品は、その時点での作者の意図がはっきりしているという点で重要です。

 また、賢治は自身が書いたもののうち、ぜひ後世に伝えたいと考えた作品については、自身の手できちんと活字にする努力をしているように思います。

 そして『春と修羅』出版への野心は、「恋と病熱」を書いた大正11年の3月ごろ、賢治のこころに点ったものと思われます。

 出版するとなれば、おのずと読者の存在が意識され、作品の背景を説明する必要を感じたのでしょう。

「冬のスケッチ」では記されていなかったトシの病が、「恋と病熱」では「つめたい青銅の病室で/透明薔薇の火に燃される」と記されます。

 そして「冬のスケッチ」において「あまりにも/こゝろいたみたれば」とだけ書かれていた自身の心境については、「恋」であることが明かされます。

 賢治が『春と修羅』の出版を思い立った背景には、恋と病、このふたつのテーマがあったものと推察されます。

二十二箇月の過去」という謎

『春と修羅』には、大正11年の1月6日から、大正12年の12月10日まで、ちょうど2年分の心象スケッチが収録されています。

 そのため3月20日の日づけを持つ「恋と病熱」は、『春と修羅』に収められた心象スケッチのうち、8番目の作品に当たります。

 8番目の作品でありながら、それでもなお「恋と病熱」が「冬のスケッチ」と『春と修羅』の転換点と考えられる理由は、じつを言うと『春と修羅』の「序」のなかにあります。

  序

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

 (後略)

 くり返しになりますが、『春と修羅』には2年、すなわち「二十四箇月」分の心象スケッチが収められています。

 しかしながら「序」には、

「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から」

 と書かれています。

 賢治はなぜ、「二十二箇月」と書いたのでしょう。

 答えは、「序」に添えられた日づけにあります。賢治は、

「大正十三年一月廿日 宮沢賢治」

 と署名していました。この日から数えて「二十二箇月」をさかのぼると、

「一九二二年三月二十日」

 これは、「恋と病熱」に添えられた日づけと一致します。

 そう、賢治は「序」に「大正十三年一月廿日」という日づけを与えたうえで、本文に「二十二箇月の過去」と書き、「恋と病熱」という作品を指定しているのでした。

 ゆえに「恋と病熱」は、『春と修羅』の書き始めであり、ほんとうの「巻頭」であろうと、わたしは考えています。

 したがって「恋と病熱」以前の7作品については、リアルタイムで書かれたものではないという可能性が出てきますが、それについては、また機会を改めて述べることにいたします。

表題作「春と修羅」は「恋と病熱」に続く

「恋と病熱」のつぎに収められた心象スケッチは「春と修羅」です。続けて表題作が収められていることからも、「恋と病熱」は巻頭にふさわしく感じられます。

   春と修羅

    (mental sketch modified)

心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路をかぎり
 れいろうの天の海には
  聖玻璃の風が行き交ひ
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素を吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげろふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
    修羅は樹林に交響し
     陥りくらむ天の椀から
      黒い木の群落が延び
       その枝はかなしくしげり
      すべて二重の風景を
     喪神の森の梢から
    ひらめいてとびたつからす
    (気層いよいよすみわたり
     ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

 ここで賢治は「修羅」となっています。

 この心象スケッチに添えられた日づけは1922年4月8日で、釈迦が誕生したとされる「花まつり」の日と一致します。修羅が仏教用語であることを考えると、その日づけには、賢治の作為が働いているのでしょう。

 作為と言えば、賢治は先に引用した『春と修羅』の「序」で、

「そのとほりの心象スケツチです」

 と書き、「心象スケッチ」とはこころに映った景色を「そのとほり」に写すものだと定義しておきながら、表題作である「春と修羅」には、

(mental sketch modified)

 と書き添え、この作品においてこころに映った景色は「modify」すなわち「変更」されているのだと断ります。

 さらに、多くの心象スケッチに添えられた日づけは、カッコ( )でくくられているのですが、(mental sketch modified)と書き添えられた心象スケッチの日づけは二重カッコ(( ))でくくられ、他の心象スケッチと区別されています。

 そもそも心象スケッチに添えられた日づけは、暦による日づけとは正確に対応しない場合があることが指摘されています。

 そのなかでも(mental sketch modified)と書き添えられたいくつかの作品は、リアルタイムではなく、じっくりと吟味されたのちに、それぞれの時点に挿入されたものと考えてよいでしょう。

 実際、(mental sketch modified)と書き添えられた心象スケッチは、妹トシさんの死を悼む「永訣の朝」など、いずれも完成度が高く、賢治の代表作として知られるものが多く含まれています。

 賢治が作品に付している日づけについては、執筆の日か着想の日か、などと議論がなされることもあるようです。

 しかし、そのいずれかに決めることは、率直に言って意味がないでしょう。作品に付された日づけは、その作品に賢治が込めた思いによって、それぞれに趣向が凝らされており、ケース バイ ケースだからです。

『春と修羅』の真の巻頭三部作

「恋と病熱」から「春と修羅」と続き、つぎに収められているのが、1922年4月10日の日づけを持つ「春光呪咀」です。

   春光呪咀

いつたいそいつはなんのざまだ
どういふことかわかつてゐるか
髪がくろくてながく
しんとくちをつぐむ
ただそれつきりのことだ
  春は草穂に呆け
  うつくしさは消えるぞ
    (ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ)
頬がうすあかく瞳の茶いろ
ただそれつきりのことだ
       (おおこのにがさ青さつめたさ)

「恋と病熱」から20日あまり。

 賢治は美しい女性を、その瞳の色が分かるほどの近さで見つめています。

 修羅の嘆きをよそに、その恋は、とまどうばかりの速さで進んだものと思われます。

 こうして恋が進展したことこそが、「冬のスケッチ」から『春と修羅』へと作品が変化したエネルギーとなったのでしょう。

 恋と病熱

 春と修羅

 春光呪咀

 表題作を、恋にまつわるふたつの心象スケッチではさんだこの三作は、『春と修羅』の真の巻頭三部作で、「序」によって指定されたプロローグではないかと、わたしには思われてならないのです。

『春と修羅』の装丁は、賢治自身が吟味したことが知られています。

 藍染の麻布にアザミの文様が染め抜かれた美しい造本には、妹トシさんはもちろん、明らかにはその名を記されることのなかった恋人ヤスさんへの「愛」が、しっかりと込められているものと、わたしは考えます。

「しんとくちをつぐむ」と「春光呪咀」に記された女性の口もとが、残された写真で見る大畠ヤスさんの唇とよく似ていると感じるのは、はたしてわたしだけでしょうか。

 ◆

 宮澤賢治の恋についての読み解きは、『宮澤賢治 百年の謎解き』(T&K Quattro BOOK)に詳述してあります。よろしければ合わせてお読みくださいませ。

星野道夫さんの手紙

2023年3月13日