母音で韻を踏む言葉に恋を隠す
宮澤賢治は、母音で韻を踏むことを意図しており、その作中に、相思相愛の恋人、大畠ヤスさんの名前を記そうとしていました。
20年近く賢治の恋を読み解いてきたわたしの、これがひとつの答えです。
賢治が恋を記していたからと言って、その内容が事実であるとも、自身の体験であるとも限らない。そう考える読者もおられるでしょう。
賢治の恋を、年譜にも載せられる事実として証明するには、ふたりが訪れた場所を特定するなど、実証的な調査が必要なのに違いありません。
しかし、賢治がその作中に韻を踏んだ文章を織り交ぜていたこと、韻を踏んだ部分を追いかけてゆくと恋に結びつくことは、どなたにも検証可能な明らかな事実です。
賢治は自らの作品に恋を記すとともに、その証拠を、作中に忍ばせていたのだと、わたしには思われます。
クラムボンは恋する賢治
「韻を踏む言葉を探す遊び」を、英語で「crambo(クラムボウ)」と言うそうです。
そのことから、国語の教科書にも掲載されてきた有名なおはなし「やまなし」に登場する謎の言葉「クラムボン」は、「韻を踏む言葉を探す者」すなわち「恋する賢治自身」を表すと、わたしは考えています。
「やまなし」の冒頭では、2匹の蟹の子どもが次のような会話を交わします。
『クラムボンはわらったよ。』 『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』 『クラムボンは跳ねてわらったよ。』 『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
ここでくり返される「かぷかぷ」の「かぷ」が、ヤスの名と同じ母音「a-u」を持つという事実は、
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
という文が、
「恋する賢治はヤス、ヤスと笑った」
という意味を隠し持つことを意味します。
賢治が、嬉しいことがあると「ほほっ」と跳ねるひとだったことは、多くの教え子さんが証言しているところです。
風のなかで、人の名前をなんべんも
「かぷ」がくり返されて「かぷかぷ」というオノマトペになっている事実からは、『春と修羅』に収められた心象スケッチ「マサニエロ」のつぎの1節を思い出します。
(なんだか風と悲しさのために胸がつまる) ひとの名前をなんべんも 風のなかで繰り返してさしつかへないか
風は英語で「wind(ウインド)」です。その文字列のなかに「in(イン)」という言葉が含まれることは、決して偶然ではないのでしょう。
賢治は「韻」のなかで、ヤスの名前をくり返していたのです。
このようにして賢治は、ヤスさんの名前と同じ母音を持つ言葉を、さまざまな箇所に用いているのでした。
たとえば賢治が「ジャズ」という音楽に関心を抱いていたのも、その音が「ヤス」と一致していることと無縁ではないでしょう。
「やまなし」というおはなしのタイトルも、「やまなす」と訛れば「ヤス」そのものです。
また、花巻農学校を辞めたあとの賢治は、農村を豊かにするべく「羅須地人協会」を設立します。「羅須」とはどういう意味かと問われた賢治は、
「花巻を花巻と呼ぶようなもので、深い意味はない」
と答えたと伝えられますが、その母音は「a-u」です。わたしには、賢治自身を表す「修羅」の「羅」に、ヤスの「ス」に漢字を当てて組み合わせたものに思われます。「羅須」は、「賢治とヤス」という意味を含むことになるのです。
『春と修羅』出版のもうひとつの目的
修羅と言えば、『春と修羅』の「春」もまた「a-u」の母音を持ちます。修羅が賢治自身を指すとすれば、『春と修羅』というタイトルは「ヤスと賢治」という意味を併せ持つことになります。
生前の賢治が自費で出版した『春と修羅』が、賢治にとって重要な意味を持つことは言うまでもありません。
『春と修羅』のなかで最も有名な心象スケッチは、愛しい妹、トシさんの死を悼んだ「永訣の朝」をはじめとする一連の作品でしょう。この本が、トシさんの魂に捧げられたものであることは、どなたにも納得いただける事実でしょう。
しかし、母音に注目して言葉の意味を吟味してゆくと、賢治にとってこの1冊がなぜ重要なのか、もうひとつの意味が、鮮やかに立ち上がってくるようです。
1924年の4月に出版された『春と修羅』に収められた心象スケッチは、1922(大正11)年と1923(大正12)年の2年分です。
そして、賢治が大畠ヤスさんと相思相愛だったのは1922年のおよそ1年間です。
その恋が周囲の反対によって破れかけ、先に紹介した「やまなし」を岩手日日新聞に掲載したのは1923年。
ヤスさんが他の男性との縁談を受け入れ、とうとうアメリカに渡ってしまうのが1924年6月のことです。
『春と修羅』が書かれた時期は、賢治がヤスさんと恋をし、ヤスさんが去るまでの期間と、ぴったりと重なります。
心象スケッチ「小岩井農場」と宮澤賢治の恋
母音を確かめながら『春と修羅』に収められた作品を見直してゆくと、美しい心象スケッチ「小岩井農場」の存在に、注目せずにはいられません。
「小岩井農場」は、「パート一」に始まり「パート九」に終わる長編スケッチです。ただし、「パート八」はありませんし、「パート五」と「パート六」は、パート名のみが記されていて、本文はありません。
また、「パート九」には「恋愛」や「性欲」という言葉が唐突に記されています。
「パート九」の読み解きは、また別の機会に譲ることにしますが、これまで広く信じられていたように、「宮澤賢治は恋を経験していなかった」という前提に立てば、それらの言葉の理解は難しくなります。
さて、賢治作品においてヤスさんとの恋が記されたものは、そのほかの作品に比べ、明らかに意図的に韻を踏む傾向があります。
そのことは、「小岩井農場」の「パート一」の冒頭からも確かめられます。
わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ けれどももつとはやいひとはある 化学の並川さんによく肖たひとだ あのオリーブのせびろなどは そつくりおとなしい農学士だ さつき盛岡のていしやばでも たしかにわたくしはさうおもつてゐた このひとが砂糖水のなかの つめたくあかるい待合室から ひとあしでるとき……わたくしもでる
冒頭2行は、「ずいぶん」「すばやく」「くも」「くらいだ」が、いずれも頭に母音「u」を持ち、「汽車」「ぎらっと」「ひかった」が母音「i」を持って、文末は「た」で揃えているため、声に出して読めば分かりますが、リズムがあります。
さらに「化学」「並川」「さん」の母音「a」の重なりは、賢治が意図して作り出したものです。なぜなら盛岡高等農林で賢治に化学を教えたのは「古川仲右衛門」だったからです。
賢治はのちに、『春と修羅』に鉛筆で添削を加えたときに、並川を古川に直していますが、それは決して、並川が誤記であったことを意味するものではありません。
ほんとうは古川なのに、韻を踏むためにあえて並川にしたことが、賢治にとって重要だったのです。
そのためにも、実際には古川であったことも、書きとめておく必要がありました。
並川さんのあとも、「オリーブ」「そっくり」「おとなしい」「農学士」と頭を「o」で揃えるなどして韻を作り、「ひとあしでるとき」「わたくしもでる」と言葉を重ねます。
そもそも「小岩井」はローマ字で書くと「koiwai」で、「koi」すなわち「恋」と、「ai」すなわち「愛」を含むことを、賢治は意識していたものと思われます。
「からまつ」に込められた愛
「小岩井農場」が、恋人ヤスさんへ贈られたものだと考えられるさらなる理由は、「からまつ」という言葉へのこだわりです。
「パート二」に、
「からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだし」
という表現があり、「パート七」には、
「から松の芽の緑玉髄(クリソプレーズ)」
「これらのからまつの小さな芽をあつめ/わたくしの童話をかざりたい」
との表現が見られます。
「クリソプレーズ」は、美しい緑色をした玉髄のなかまで、研磨されて宝石としても扱われます。
カラマツはマツでありながら秋には落葉します。したがって春には新たに芽吹くのですが、明るい緑色をした松葉の小さな束が、枝いっぱいに点々と散りばめられて伸びてくるさまは、ほんとうに愛おしいものです。
ですから賢治が、こんなふうにカラマツの新芽を愛しく表現することは、大いに共感するところです。
ところがその母音を見ると、その愛しさは、いっそうはっきりとしてきます。
「まつ」は「a-u」、「からまつ」は「a-a-a-u」で、ヤスと母音を同じくします。
さらに、カラマツ属の学名は「ラリックス」で、あいだに文字を挟みはしますが、「ラ」ではじまり「ス」で終わる、つまり「ラス」という文字を含む言葉になり、やはり「a-u」を含みます。
「からまつ」は、どうしても「a-u」につながる言葉なのです。賢治はその新芽の愛しさを、ヤスさんに重ねているものと思われます。
そして「パート九」のラストで、ラリックスはくり返されます。
ラリツクス ラリツクス いよいよ青く 雲はますます縮れてひかり わたくしはかつきりみちをまがる
「青」は賢治作品において、恋を表現するのに使われることがある色です。
また「雲」は、「恋愛」を意味することがあります。
「青」や「雲」に込められた意味については、またの機会に詳述しますが、賢治はここで、ヤスさんがどんなにか愛しくて、恋がいよいよ深まっていることを、韻に託して表現しているものと読み解けます。
賢治が「かっきり」曲がって行った先には、ヤスさんが微笑んでいたに違いありません。
黒いインバネスは男性なのか
「小岩井農場」で、最も明瞭に韻を踏むのは、「パート二」です。
たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるし 雨はけふはだいぢやうぶふらない しかし馬車もはやいと云つたところで そんなにすてきなわけではない いままでたつてやつとあすこまで ここからあすこまでのこのまつすぐな 火山灰のみちの分だけ行つたのだ あすこはちやうどまがり目で すがれの草穂もゆれてゐる (山は青い雲でいつぱい 光つてゐるし かけて行く馬車はくろくてりつぱだ) ひばり ひばり 銀の微塵のちらばるそらへ たつたいまのぼつたひばりなのだ くろくてすばやくきんいろだ そらでやる Brownian movement おまけにあいつの翅ときたら 甲虫のやうに四まいある 飴いろのやつと硬い漆ぬりの方と たしかに二重にもつてゐる よほど上手に鳴いてゐる そらのひかりを呑みこんでゐる 光波のために溺れてゐる もちろんずつと遠くでは もつとたくさんないてゐる そいつのはうははいけいだ 向ふからはこつちのやつがひどく勇敢に見える うしろから五月のいまごろ 黒いながいオーヴアを着た 医者らしいものがやつてくる たびたびこつちをみてゐるやうだ それは一本みちを行くときに ごくありふれたことなのだ 冬にもやつぱりこんなあんばいに くろいイムバネスがやつてきて 本部へはこれでいいんですかと 遠くからことばの浮標をなげつけた でこぼこのゆきみちを 辛うじて咀嚼するといふ風にあるきながら 本部へはこれでいゝんですかと 心細さうにきいたのだ おれはぶつきら棒にああと言つただけなので ちやうどそれだけ大へんかあいさうな気がした けふのはもつと遠くからくる
前半の「あすこ」のくり返し、中段の「ひばり」のくり返し、ひばりの描写は文頭を「o」で揃え、文末を「ゐる」で統一している点など、「パート二」は、まさにラップのように韻を踏んでいると言えるでしょう。
ちなみに「あすこ」は「a-u-o」で「ヤス」もしくは「ヤス子」を意味し、「ひばり」は「i-a-i」で「愛」を含みます。そして「あすこ」は「まがり目」です。
じつに念入りに韻を踏んでいるという事実は、「パート二」が、恋を記すうえで重要な意味を持つことを物語っています。
賢治との恋に破れたのち、他の男性との縁談を受け入れて1924年に渡米していたヤスさんでしたが、その3年後の1927年4月13日、シカゴで亡くなります。27歳でした。
賢治はそのことを知ったのちに、つぎのような表現を含む心象スケッチを、ノート用紙に認めています。
恋人が雪の夜何べんも 黒いマントをかついで男のふうをして わたくしをたづねてまゐりました そしてもう何もかもすぎてしまったのです
「恋人」は、密かに賢治に会いに来るとき、「黒いマント」を被って、男のふりをしていました。
すると、「小岩井農場」の「パート二」に登場する「くろいインバネス」が男性とは限りません。
冬にもやつぱりこんなあんばいに くろいイムバネスがやつてきて 本部へはこれでいいんですかと 遠くからことばの浮標をなげつけた
「ことばの浮標(ヴイ)」とは、言うまでもなく「言葉の目印」、「合言葉」と解釈してよいのでしょう。
5月の小岩井農場を歩きながら、ふいに差し挟まれる冬の回想。
その、冬の小岩井農場で、
「本部へは、これでいいんですか」
と遠くから尋ねたのは、ヤス、そのひとであったと、わたしは推測します。
でこぼこのゆきみちを 辛うじて咀嚼するといふ風にあるきながら 本部へはこれでいゝんですかと 心細さうにきいたのだ おれはぶつきら棒にああと言つただけなので ちやうどそれだけ大へんかあいさうな気がした
ヤスを見初めたばかりのころ、賢治はどうやら、冬の小岩井農場にヤスを誘ったようです。
親しくなったばかりの女性を冬の小岩井農場に誘うなんて、虫好きがはじめてのデートで彼女を昆虫採集に連れてゆくようなものです。
相手によっては、ここですっぽかされていても、おかしくはありません。
ところがヤスは、来たのです。
賢治が「見せたい」と言う冬の小岩井農場は、いったいどんなところなのか。
でこぼこの雪道を踏みしめ踏みしめ、遠くから歩いてきたのです。
賢治が、ヤスという女性をこころの底から好きになったのは、あるいはその姿が、きらきらと光る粉雪の向こうに、ぽつりと現れた瞬間だったのかも知れません。
それがヤスの声だ
俺を見つけたら、「本部へはこれでいいんですか」と声をかけてくれ。賢治はおそらく、そうヤスに伝言していたのでしょう。
そうしてヤスさんと落ち合ったのち、「小岩井農場」のなかで回想される冬の小岩井農場では、賢治はひとりではありません。
傍らには「くろいインバネス」、すなわち愛しいヤスが、並んで歩いているのです。
「小岩井農場」の「パート四」には、冬の日の思い出がくり返し記されます。
冬にはこゝの凍つた池で こどもらがひどくわらつた (から松はとびいろのすてきな脚です 向ふにひかるのは雲でせうか粉雪でせうか それとも野はらの雪に日が照つてゐるのでせうか 氷滑りをやりながらなにがそんなにをかしいのです おまへさんたちの頬つぺたはまつ赤ですよ)
光る野原を見て無邪気に語り、子どもたちに話しかけるのは、賢治でしょうか、ヤスでしょうか。
ヒントは「パート四」の中段に出てくる「雉子」です。
それから眼をまたあげるなら 灰いろなもの走るもの蛇に似たもの 雉子だ 亜鉛鍍金の雉子なのだ あんまり長い尾をひいてうららかに過ぎれば もう一疋が飛びおりる 山鳥ではない (山鳥ですか? 山で? 夏に?) あるくのははやい 流れてゐる オレンヂいろの日光のなかを 雉子はするするながれてゐる 啼いてゐる それが雉子の声だ
キジが目の前に現れたのは、5月なのか冬なのか、明記はされていません。
しかし、ふいに差し挟まれる、
(山鳥ですか? 山で? 夏に?)
というせりふは、賢治が自問したにしては不自然で、誰かに問いかけられたものと思われます。
それが冬であれば、賢治はひとりではありません。おそらくは会話のなかで、
「以前は山鳥を見たこともありますよ」
などと賢治が言い、それに対してヤスが問いを重ねたのでしょう。
そして賢治は書くのです。
「啼いてゐる/それが雉子の声だ」
ここでキジという鳥の名が、漢字で書かれていることに、わたしは注目します。
「雉」という漢字を分解すると、偏は「矢」で、旁は鳥を表すという「隹」です。読みは、「矢」は言うまでもなく「や」で、「隹」は「すい」でしょう。
つまり「雉」という漢字は、「やす」という音を含んでいます。「雉子」は「やすこ」すなわちヤスを意味するのではないでしょうか。
「それが雉子の声だ」
という1行は、
「それがやすこの声だ」
という意味をあわせ持ち、「小岩井農場」の「パート四」に指し挟まれているせりふが、ヤスの口から発せられたことを暗示しているのではないでしょうか。
そんな子どもの遊びのようなことを、あの賢治がするだろうか、という読者の声が聞こえてきそうです。
けれども、韻に託してヤスの名前を記そうとしていた賢治のことです。ヤスという名前を記せるものなら、たとえ子どもの言葉遊びのようなことでもしただろう、そう、わたしは考えます。
「小岩井農場」は、恋人ヤスさんに捧げられた愛の心象スケッチです。
この美しい長編スケッチの存在から、賢治が1924年の春に『春と修羅』を自費出版した動機のひとつは、アメリカに旅立つヤスさんに渡すためであったと、わたしは推測しています。
心象スケッチ「小岩井農場」全文を、音楽とともに朗読したCDを制作しております。
耳から読む心象スケッチ、よろしければ読み解きとともにお聴きくださいませ。
また、詳しい読み解きは自主制作本『宮澤賢治 百年の謎解き』(T&K Quattro BOOK)をお読みいただければ幸いです。
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