文士劇とは、文字通り作家の演じる劇である。そして盛岡劇場で年末に行われる盛岡文士劇は、その伝統をいまに伝えていて、27回の公演を重ねている。
わたしも盛岡文士劇に出演し、令和4(2022)年12月の「一握の砂 石川啄木という生き方」で、通算10回となった。加えて東京公演が2回あった。合計12回になる。
はじめて出演したのは、平成8(1996)年の第2回公演である。演目は「白浪五人男」と記憶している。わたしの役どころは「腰元2」。腰元は女装の斎藤純さん含めて5人いて、ひとつのセリフを5つに区切って、ひと言ずつ話すのだった。
そのころの盛岡文士劇には、
「文士が演ずるのだから、完璧な演技をする必要はない」
という雰囲気が横溢していた。わたし自身、割り当てられたわずかなセリフを機械的に口にするだけで十分だと思っていたし、正直なところ、全体のストーリーがどのようなものであるかも確かには把握していなかった。
そのような、言わば余力で出演できる文士劇に、わたしはあまり、こころを惹かれなかった。そこで第3回からは、出ないことに決めた。とは言え、
「なぜ文士劇に出ないの?」
と尋ねられて、「興味を持てないからから」と答えるのは、さすがに憚られる。かつら屋さんには、たいへん申し訳ないことだったが、わたしはいつのころからか、
「かつらが痛くて」
と答えるようになっていた。
そんな盛岡文士劇に、再び出演する運びとなったのは、平成25(2013)年のことだった。文士劇の脚本を何回めからか担当するようになっていた道又力さんと、どこかのパーティーで顏を合わせたときに、件の質問を受けた。例によってかつらのせいにすると、道又氏は、
「なんだって?」
と目を見開いた。さらに、
「かつらが痛いくらいで舞台に立たないだなんて、この根性なし!」
と語気を強める。
わたしとて、文士劇に出ないくらいで、親しくもない道又氏に根性なし呼ばわりされる筋合いはない。氏は、第2回のときに同じ舞台に出演していたらしいのだが、お互いに端役同士ゆえ、まったく存在を認識していなかった。わたしは意を決して、
「それならほんとうのことを言わせていただきましょう」
と前置きをし、
「文士劇に出ても、ちっとも面白くないじゃないですか」
と、本音を語らせていただいた。すると道又氏の舌鋒が炸裂した。
「君が文士劇に出ていないあいだに、文士劇は面白くなったんだ! なぜならこのわたしが脚本を担当しているからだ! けれども君のように根性のない人間には出てもらいたくないけどね」
「べつに出たいなんて言っていませんけど?」
「仮に出たいと言われても、絶対に出てほしくない!」
「出たいなんて、これっぽっちも思っていませんから、どうぞご安心を!」
「ああ、分かったよ、芸なきは去れ!」
……と、パーティー会場の一角で、おとなげない会話をくり広げてしまったのだった。
そのときの会話は、確かに「出ない」という方向でまとまったはずなのだが、やがて文士劇事務局のある盛岡劇場からオファーの封書が届き、わたしは結局、文士劇に復活することになった。その背景には、
(文士劇が面白くなったことを思い知らせてやる)
という、道又氏の執念が働いていたものと推測される。
◆
復活してみると、盛岡文士劇は確かに変わっていた。
「文士だからセリフをとちっても構わない」
という雰囲気は霧消していたし、演出には秋田からわらび座の安達和平さんを迎えて、稽古場にも緊張感が漂っている。
演目は「赤ひげ」で、わたしは女郎屋の女将「おぎん」であった。出るのは、たった1場面だったけれど、座長の高橋克彦さん扮する「赤ひげ」に、
「ふざけんな!」
と啖呵を切るシーンがあって、生半可なセリフまわしでは格好がつかない。おまけにゲスト出演する女優の藤田弓子さんに、
「それは杉村春子の当たり役、いい役だわあ。わたしが演りたいくらい」
と言われ、ハードルは上がりに上がった。
結果、わたしは「おぎん」に、真剣にとり組まざるを得なくなった。
しかし「真剣にとり組む」とは、なかなかに気持ちのよいものである。真剣になることで、新たに見えてくる景色もあった。それは、ひとりひとりの出演者を支えるたくさんのプロの存在である。
かつらは、ていねいに合わせてもらうと、もう少しも痛くなかったし、衣装は役柄に合わせて細やかに吟味されている。楽屋に入ると、顔師さん、着つけ師さん、たくさんのプロの手が伸びてきて、みんなはするするとそれぞれの役柄に変身させてもらえるのだった。
それらのプロの手に、わたしは惚れ惚れと見入ってしまった。
以来、わたしが文士劇に出演し続けたいちばんの理由は、本番当日の楽屋で、かつらや衣装や化粧道具とともに鎮座するプロたちに再会し、その見事な仕事ぶりに惚れ惚れとしたいから、だったかも知れない。
音響、照明、大道具さんなどのプロの腕前を目の当たりにするのが楽しみだったことは、改めて言うまでもない。
鹿鳴館ばりのドレスを着てソシアルダンスを踊った年もあったし、山賊になって刀を振り回し、絶命する年もあった。十二単も来たし、薩摩の兵隊にもなった。
役柄に無理が出てきたのは、ここ数年のことである。令和元(2019)年は「牡丹灯籠」で「幽霊」役、令和3(2021)年は「人間万事金の世の中」で、長屋で寝たきりの「貧乏病人」役だ。
もともと大柄なうえ、還暦を迎えるころから体重増に悩んでいたわたしである。幽霊役のときは、副座長の井沢元彦さんに、
「君は役作りしないといけないね、15キロ減量ってとこかな?」
と、顏を合わせるたびに言われたが、痩せようとして始めたスクワットは3日坊主、稽古後にお夜食をつまむので食事量は増え、結果、体重は1グラムも減ることなく、肥えたまま本番を迎えたのだった。
「とても幽霊には見えないね」
と、井沢さんに皮肉られたのは当然の成り行きだった。
貧乏病人役も、推して知るべし。わたしは、まるまると肥えたまま、
「おっかさん、薬だよう」
「いつもすまないねえ、ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」
という、お定まりのセリフを口にしたのである。
これは、いくらなんでもミスキャストだろう。たまりかねたわたしは、「人間万事金の世の中」の打ち上げの席で道又氏に言った。
「貧乏役はもう無理! 貧乏役をやるくらいなら、文士劇の出演を辞退します」
「え? だけどつぎの演目は石川啄木だよ。啄木と言えば貧乏、借金だからなあ……」
「だったら啄木の家族の役はできません」
「痩せればいいじゃないかー」
「無理です!」
「じゃ、何の役だったらいいんだよ?」
「啄木の東京の文学仲間はどう? たとえば与謝野晶子とか」
すると道又氏、
「与謝野晶子は大歌人だよ、君に演らせるわけにいかないだろう!」
と、声を荒げる。
「あっ、そう! それじゃ、つぎは出ません」
「あー、どうぞ、どうぞ」
おとなげない会話が、またしてもあたりに響いたのだった。
◆
結論から言うと、わたしは与謝野晶子を演じることになり、文士劇を辞することもなかった。
与謝野鉄幹を井沢元彦さんが演じると聞いたときは、
「役作りでダイエットしないとね」
と言われるだろうと予想し、実際、その通りになったのだけれど、写真で見るかぎり、与謝野晶子はそれほど小柄でもなさそうである。わたしは、
「痩せなくちゃ」
という焦燥感を持つこともなく、のびのびと稽古に臨んだ。
とは言うものの、ほんとうはダイエットをしたほうがよかったのだ。
洋行帰りの与謝野晶子をイメージした衣装さんは、当初ワンピースを用意してくださったのだが、わたしの体型で入るものはなく、わたしはファスナーもろくに上がらないワンピースを試着しながら、
「すみませーん、洋装は無理みたいです。着物にしてくださーい」
と、衣装さんに懇願していた。
思えば着物とて、わたしにも入る大きなサイズでは色柄に限りがあるだろうに、衣装さんはプロである。与謝野晶子が縞の着物を粋に着こなしている写真を真似て、着物も帯も縞、半衿は花柄という、完璧な衣装を用意してくださったのだった。
そうして令和4(2022)年12月の文士劇は終わった。
例年なら、そこで役柄とはお別れである。しかし与謝野晶子との縁は、翌年、つまりこの5月20日まで続いた。盛岡市の友好都市であり、啄木終焉の地である文京区のシビックホールで、東京公演が行われることになったからだ。
東京なら、お世話になっている編集者さんが来るかも知れない。高校や大学の同級生や先輩は、団体でチケットを買ったと連絡をくれた。
わたしの深層心理のなかに、
(東京では、少しは格好のよいところを見せなければ)
という強迫観念があったかどうかは分からない。
12月の盛岡の文士劇が終わると、どういうわけだか体重が減り始めた。食事を減らしているわけでも、運動をしているわけでもない。なのに、階段を下りるように体重が減ってゆく。
それでも、ひと目でそれと気づくほどの痩せ方ではない。だが、着つけ師さんはプロである。東京公演の楽屋に入ると、すかさず言った。
「たまみさん、痩せたね!」
「へへへー、体重、落としてきました、5キロ!」
手のひらを広げて、体重減を報告するわたし。落としてきた、と言えば何か努力をしたかのようだが、実際のところ何もしていない。体重は、ただ「落ちた」のである。
12月には、やや小さめの着物を無理に着せてもらっていたのだと判明したのは、本番前の着つけのときだ。着つけチームは2組。片方のチームの手が空いて、
「はい、つぎ、どなたかどうぞ」
と言った。が、順番待ちをしているのがわたしであることを見てとるや、
「あ、たまみさんは、わたしたちではちょっと……」
と口ごもる。
そこへ間髪入れず、いつもわたしの着つけを担当していた姉さんが言った。
「大丈夫! たまみさんは痩せて、誰でも着せられるようになったから!」
わたしは思わず、その言葉を反芻していた。
「痩せて……誰でも……着せられる……!」
すると12月は、誰彼では着せられなかったということか。帯を巻くのにも、紐を結ぶにも、まさに腕によりをかけて締めて、締めて、締め上げて、尋常ならざる力とテクニックを必要としたということなのだ。
たかが5キロ、されど5キロ。
おかげでわたしは、ちょうどいいサイズ感で与謝野晶子ふうの着物を身につけ、東京の舞台に立つことができた。
終演後、着つけチームが衣装を脱がせながら言った。
「たまみさん、お願い。つぎに出るときも、このままの体型でいて」
衣装さん、着つけ師さん、これまでご苦労をかけてごめんなさい。敬愛するプロ集団のためにも、これからも「誰でも着せられるひと」でいようと、こころに誓ったわたしであった。
◆
与謝野晶子という、日本人なら誰でも知っているであろう大歌人を演ずるに当たり、「赤ひげ」以来10年ぶりに、再び藤田弓子さんが出ていてくださったことに、大いに助けられた。
すこぶる女癖の悪い鉄幹に、ちくちくと嫌味を言う晶子のセリフは、ただ刺々しく激しければいいのか。迷うわたしに、
「だけど、嫌だったらいっしょにいるのかしら?」
と弓子さんは言った。むしろ鉄幹を、手のひらのうえで遊ばせていたのではないだろうか。
「それでいて啄木を励ますときだって、恋をしているような気持ちで応援していたのかもね」
そうかも知れない。弓子さんと話すうちに、大らかで情の深い、豊かな晶子の姿が像を結んでいった。
実在の人物である以上、そのイメージをいたずらに崩すわけにはいかない。晶子のファンだっているはずだ。ならばやはり、魅力的な晶子であろうと思ったのだった。
不思議なことに、東京の舞台では与謝野晶子の気配が近くに感じられた。
「ああ弟よ君を泣く 君死に給ふことなかれ」
という詩の1節は、現代に通じる普遍的なメッセージだ。わたしはひと声ひと声に、こころをこめた。
◆
なお、与謝野晶子のイメージを膨らませるに当たっては、主に以下のような資料を参考にいたしました。
『やわ肌くらべ』 奥山景布子(中央公論新社)
『私の生い立ち』 与謝野晶子(岩波文庫)
『与謝野晶子ガイドブック』(山梨県立文学館企画展関連事業)
「その時歴史が動いた 与謝野晶子」(日本放送協会)のDVDは、「役作りのために」と井沢元彦さんが用意してくださいました。