盛岡大学短期大学部の幼児教育科で、非常勤講師として「環境」という科目を受け持つことになりました。 保育者に限らず、子どもと野原を歩くおとなのために、ヒントになる内容をこころがけて話してゆくつもりですので、講義内容の一部をブログにも紹介してゆこうと思います。 願わくば、野原を歩く楽しみを、たくさんの方に共有していただけますように……。
かがく絵本はこの世のガイドブック
わたしはエッセイスト、かがく絵本作家です。主に自然をテーマにして文章を書くことを仕事にするようになって、30年あまりが経ちます。
エッセイは、フィクションを交えることなく、自身の経験に基づいた文章を綴るジャンルです。そしてかがく絵本も、登場人物やその家族を設定したりすることはありますが、テーマとしてとり上げるのは、すべて実在する物事や現象です。
絵本と言って思い浮かぶのは、多くのひとにとって、ものがたり絵本かも知れません。
かがく絵本とものがたり絵本の違いは、エッセイと小説の違いに似ています。
ものがたり絵本は、フィクションを交えることができます。
たとえば昔話も、大まかにはものがたり絵本と言ってよいと思いますが、
「むかし、むかし、あるところに」
という書き出しだけで、現実世界とは「地続き」でないことが分かります。
「むかし」は「いま」ではないし、「あるところ」は「ここ」ではないからです。
いっぽう、かがく絵本は地続きの世界を描きます。多くは自然界にテーマをとり、子どもたちも追体験ができるよう、「いま」「ここ」で見られる事象を紹介します。
作り手のひとりとして地続きの世界にこだわる理由は、かがく絵本は、この世のガイドブックでありたいと思うからです。
まっさらなこころで生まれてくる子どもたち。そのこころには、この世のさまざまなものと出会うたびに、新たな情報が加えられてゆくことでしょう。
その出会いをお手伝いするのが、かがく絵本の役割ではないかと、わたしには思われます。
せっかくなら、この世のたくさんのものと、できるだけ喜びに満ちた出会いをしてほしい。
実在する自然の美しさや、そこに息づくさまざまないのちの輝きに触れることは、言うまでもなく喜びをもたらします。ごく幼い子どもにとっては、見聞きし理解できる世界が広がってゆくだけで、毎日が冒険です。
さらに子どもたちは、生きとし生けるものに目を凝らすことで、その、声にならない声を聴くでしょう。それはやがて、まだひとの言葉では語られていない自然界のものがたりを、そっと拾ってくる力にもつながります。
幼い子どもたちのこころのなかでは、現実とものがたりは、混然一体となっているものかも知れません。自然界を見つめることで、こころに空想が浮かび、ものがたりが生まれてくる、そのあわいの部分をも、豊かにフォローできるのが、優れたかがく絵本ではないかと思います。
そのうえで、読み継がれた美しいものがたりに触れることは、もちろんたいせつです。ものがたりで構築される架空の世界は、こころの真実を語るうえで必要なものとも言えるでしょう。
くり返しになりますが、かがく絵本は子どもたちに、
「あなたが生まれてきたのは、こんなところですよ」
と、さまざまな事柄を紹介する扉のようなものです。そして扉の向こうをのぞいた子どもたちに、
「ここは、生きてゆくのにじゅうぶんに値する世界だ」
と感じてもらえたら、それは大きな喜びです。いささか大げさに言えば、わたしはかがく絵本に、
「だからみんな、この世で生きていこう」
(死なないで!)
という願いをこめています。
野原の楽しさを子どもたちに
現実世界と地続きであり、読者が追体験できることが、かがく絵本の大きな特徴です。
ですからわたしの作品では、本としての結末はあるものの、読者の皆さんが追体験をしてなにを感じるか、その感じた内容こそが、ほんとうの結末だと思っています。
かがく絵本を読んだら、ぜひ追体験をして、自分なりの結末を見つけてほしいと思います。
ただしそれには、子どもたちといっしょに野原を歩くおとなが必要です。かがく絵本がこの世のガイドブックなら、子どもをとり巻くおとなは、「この世のガイド」と言ってもよいでしょう。
子どもと自然を歩くには、知識があることは必ずしも必要ではありません。むしろ、子どもの驚きや感動により添い、気持ちを共有できることのほうが重要です。
子どもと野原を歩くときは、いっしょに歩くおとな自身も、喜びを感じていることが、とてもたいせつではないかと思います。
けれども残念なことに、世のなかには虫を嫌うおとながずいぶんたくさんいて、虫への嫌悪感が、野原を歩くうえでのブレーキになっています。
子どもたちのなかには、虫を嫌うおとなに接したことがきっかけで、虫を嫌いになってしまう子もいます。虫を嫌うおとな自身、なにかきっかけがあって、嫌いになってしまったのでしょう。
虫を好きなまま成長していたかも知れない子どもたちが、虫を嫌うおとなに出会ったことで好きなものをひとつ減らしてしまうのは、とてもとても残念なことです。
ですから子どもと接する立場にあるおとなの方々には、ぜひとも虫嫌いを克服してもらいたいと願わずにはいられません。
「はるのにわで」で描きたかったこと
2022年3月に福音館書店から出た『はるのにわで』(米林宏昌さん絵)は、もともと同じく福音館書店の月刊絵本「かがくのとも」の1冊にするために書いた原稿でした。
原稿を仕上げたのは2012年3月。出版まで10年の月日を費やしたのは、編集者さんが異動になり、かがく絵本の担当ではなくなってしまったからです。それでも、たいせつに原稿を携えたまま、本にする機会をうかがっていてくださり、ようやく実現したのが昨年だったというわけです。
この絵本は、小さな庭で、ほんのわずかな時間に起こる、生きものたちのつながりを描いています。目を凝らしさえすれば、たとえ玄関先でも、小さなドラマは起こっている。そのことを伝えようとしています。
しかし、この絵本のなかで、もっとも伝えたかったことは、後半に描かれているカマキリの子どもたちの誕生でした。
小学生のとき、わたしは毎年のようにカマキリの卵のうをとってきては、ランドセルのなかに入れたままにしている子どもでした。そうするとご想像のとおり、春になると、孵化が起こります。
ひとつの卵のうからは、おおよそ150頭の幼虫が生まれてくると言われます。吹けば飛ぶような赤ちゃんカマキリが、ランドセルから溢れるように出てくるのですから、たまったものではありません。
わたしは子どもごころに、カマキリといえども、生まれたてはずいぶん小さくて、とてもたくさん生まれてくるのだと思いました。
おとなになって調べてみると、カマキリのメスは卵のうを7つほど産むとされています。すると1頭のメスが、およそ1000個の卵を産む勘定になります。
1頭のメスが1000個の卵を産むとは、1000個産まないと次世代の個体数が維持できないことを意味します。つまりカマキリのような肉食の虫でさえも、小さいうちはほかの虫や動物に食べられてどんどんとその数を減らし、最終的に成虫になるのは数頭に過ぎないというわけです。
すると1000頭のうちほとんどは、あえなく死んでしまう運命にあるのでしょう。彼らにとって、生き延びて成虫になることは、奇跡のような出来事に違いないのでした。
死ぬことこそが運命で、生き延びることは奇跡。
そんな虫たちにあって、卵から生まれたばかりの赤ちゃんカマキリは、どれも意気揚々としています。言うまでもないことですが、どの1頭も、
「生き残るのは、この自分だ」
と、おのれの生命力を信じているのです。
以来、わたしはカマキリを見ると、
「がんばって生きているのねえ」
と声をかけずにはいられません。するとカマキリたちからも、
(うん、ぼくたち、わたしたち、がんばって生きているよ)
という、小さな声が返ってくるような気がします。
疲れたときは、
(だから、あなたもがんばって)
と、励まされる気さえするのです。
絵本にカマキリの誕生を描きたかった理由は、できれば子どもたちにも興味を持ってもらい、生まれたばかりの小さなカマキリたちに出会ってほしい、という願いにほかなりません。
たくさんの子どもたちのなかには、わたしのように、カマキリたちから励まされる子も出てくるでしょう。
ですから、虫を好きでいる可能性のあった子どもが、おとなの影響を受けて虫嫌いになってしまうのは、とてももったいないことだと思うのです。
虫を好きでいれば、彼らから、
(あなたも生きて)
と、そっと背中を押されることもあるのですから……。
子どもと関わるおとなの方には、ぜひ、虫嫌いを克服する努力をしてほしいと思います。
全員が、
「虫大好き!」
と言えるようになることを目指すわけではありません。
ひともまた生きもので多様性を持って存在していますから、いろいろなのは仕方のないことです。
それでも、虫を見るのも苦手だった方が見られるように、見るだけなら平気だった方が触れるように、もともと好きだった方がもっと好きになれたなら、全体としては、ずいぶん変わるのではないかと思います。
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おしまいに、アンケートの記入をお願いします。
生きものについてのいまの気持ちを書きとめておきましょう。 ①好きな生きものがいますか。好きな生きものはなんですか。好きになった理由やきっかけも、できるだけ具体的に書きましょう。 ②嫌いな生きものがいますか。嫌いな生きものはなんですか。嫌いになった理由はきっかけを、できるだけ具体的に書きましょう。
ちなみに教科書には、『自然をこんなふうに見てごらん 宮澤賢治のことば』(山と渓谷社)を使用します。