ハイカラさんが行く~ヤスの存在をいまに伝えた女性

 エッセイは、自身の身のうえに起きたこと、自身で考えたことを書く文学の1ジャンルです。フィクションを加えてはいけないので、自分で見聞きしたり思考したりした事柄だけをテーマにします。したがって人生経験が豊かになればなるほど、テーマにもこと欠かなくなると言えましょう。

 エッセイを書いていれば、歳をとるのも、そう悪いことではないと思えてきます。

 2022年の8月、わたしは『宮澤賢治 百年の謎解き』(T&K Quarrto BOOK)を自主制作いたしました。

 宮澤賢治が相思相愛の恋を経験していたという事実を、その作品から確かめられないだろうかと、2003年からとり組んできた賢治作品の読み解きの記録です。賢治が恋をしていたのは1922年でしたから、100年後の2022年に間に合わせようと数年前から準備してきました。

 自主制作とあって、執筆はもちろん、編集、校正、デザインのすべてを自分の手で行いました。ひとりでできることには限りがあって、あちこち拙いのですが、わたしにとっては記念すべき1冊です。数えてみると、わたしのすべての著作のなかで、ちょうど50冊目に当たると分かりました。

 そしてこの本の完成の報告を、SNSなどに流していたところ、思いがけないお知らせが届きました。

 ◆ ◆ ◆

 連絡をくださったのは、高校、大学と先輩に当たる方です。したがってわたし同様、賢治の後輩に当たります。

 お仕事で海外にお住まいですが、SNSをフォローし合うようになったのは、おかしなきっかけからでした。なぜかわたしが、いまは海外で暮らす先輩を訪ねる夢を見て、そのことをブログに記したところ、なんと「わたしです」とご本人からコメントが。

 豪快でいながら繊細で、魅力的な先輩ではありましたが、夢に見たのも唐突なら、それがご本人の目に触れたのも驚きでした。

 以来、SNSでそれとなく投稿を眺めているという間柄だったのです。

 先輩からいただいた連絡は、つぎのようなものでした。

「あなたの投稿を見ているうちに、点が線になってきました」

 詳しく状況を伺うと、先輩のおばあちゃんは花巻出身で、生前、

「賢治さんには好きなひとがいて、彼女も賢治さんのことが好きだった」

 と言っていたというのです。

 それは先輩が高校か大学のときで、いまから40~45年ほど前のことだったそうです。

 宮澤賢治が相思相愛の恋をしていたことは、昭和50年代に花巻の文学研究家・佐藤勝治さんが、花城小学校の教師をしていた大畠ヤスさんを見つけ、昭和56年に雑誌『くりま』などに発表して、はじめて明らかになりました。

 それまで賢治は、恋や女性とは無縁の人生を送った聖人というイメージが強かったのですから、おばあちゃんの話を聞いた先輩が、ピンと来なかったのも無理もありません。

 先輩は、ぼんやりと記憶していた謎の言葉が、大畠ヤスさんにつながって、いま理解できた……! と、おばあちゃんの思い出が鮮やかになったことを喜んでくださいました。

 それだけでも、わたしにはじゅうぶんに嬉しい出来事だったのですが、しみじみと考えているうちに、それにしても先輩のおばあちゃんは、いったいどうして賢治とヤスさんの恋を知ったのだろうと、不思議に思えてきました。

 もしかすると先輩のおばあちゃんは、ヤスさんのごく近くにいた方かも知れないのです。

 佐藤勝治さんの調査によると、ヤスさんから恋を打ち明けられていたのは同僚で親友の「熊谷里子」でした。名前の表記については、実際には「子」がついていない場合もあるので、正確には「熊谷サト」さんだった可能性があります。わたしは恐る恐る、先輩におばあちゃんのお名前を尋ねていました。

 すると残念ながら、おばあちゃんは「イキ」さんで、「サト」さんではありませんでした。しかもお歳を尋ねると、昔のことで正確ではないのですが、どうも大畠ヤスさんよりは、かなりお若いようなのです。

 でも!

 先輩のつぎの言葉に、思わず胸が震えました。

「おばあちゃんの旧姓は熊谷ですよ!」

 するともしや……。

 わたしは先輩に、つぎのように返信しました。

「おばあちゃんのお姉さんが、大畠ヤスさんの親友のサトさんかも知れません。写真を送ってみます」

 ややあって、先輩から返信がありました。

「昔のことなので確かなことは言えませんが、左から2番目の方が母の若いころによく似ています」

 左はじがヤスさんですから、親友のサトさんがとなりに座っていてもおかしくはありません。

 さらに先輩から、

「おばあちゃんは、そのことを研究家さんに話したと言っていました」

 という連絡があり、わたしは確信しました。

 佐藤勝治さんが大畠ヤスさんを見つけたのはまったくの偶然で、近所のご婦人から教えられたのでした。

『宮澤賢治 百年の謎解き』の74ページに、わたしはつぎのように書いていました。

 一九七五(昭和五〇)年ごろ、盛岡に住んでいた佐藤勝治さんは近所のご婦人から、
「宮澤賢治と恋愛関係にあったが実らず、失意のまま他の男性と結婚した女性がいた」
 と聞かされます。
 このご婦人は、佐藤さんより年長で花巻出身。花巻高等女学校に学び、藤原嘉藤治から音楽やテニスの指導を受けたとのこと。
 そしてなんと、ご婦人の姉上がヤスと親しく、賢治と藤原嘉藤治の主催するレコードコンサートに参加していたというのです。
 驚いた佐藤さんは、ご婦人に頼んで、タンスや戸棚の奥底に眠っていたヤスの写真やハガキを探し出してもらいました。
 以来、佐藤さんは花巻での聞きとり調査を行い、関係者からの詳細な証言を得ると、ヤスこそが賢治の恋人であったとの確信を深めてゆきます。
 そうして一九八一年(昭和五六)年には、文藝春秋の『くりま』新春号の巻頭グラビアに、「黒髪ながく瞳は茶色 賢治の恋人新発見!」という見出しとともに、ヤスの顔写真が掲載されました。
 

 わたしは念のため、先輩にもういちど尋ねました。

「おばあちゃんは、どちらにお住まいでしたか」

 先輩からは、佐藤勝治さんがお住まいだったのと同じ、盛岡市内の町名が出てきました。

 なんと先輩のおばあちゃんが、佐藤勝治さんに大畠ヤスさんの存在を教えたご婦人、そのひとだったのです。

 佐藤勝治さんは、証言をしてくださったご婦人のお姉さんがヤスと親しいとは書いていますが、そのお姉さんが熊谷サトさんであることは記していませんでした。それはおそらく、情報提供者であるご婦人を考慮してのことだったでしょう。

 熊谷サトさんは、ヤスと同様に恋愛をしていましたが、教師どうしの自由恋愛ということで町の噂になり、函館に駆け落ちをしたのです。

「もしかすると、おばあちゃんのお姉さんは、北海道にお住まいでしたか」

 先輩に訪ねると、

「確かに、北海道には親戚がいます」

 との答えが返ってきました。

 ◆ ◆ ◆

 大畠ヤスさんの親友で、自身も恋愛をしていた熊谷サトさん。ふたりの恋を見つめていた、妹の熊谷イキさん。

 故郷を離れても恋を実らせようとしたサトさんは、イキさんにヤスさんの写真や絵ハガキを残したのでしょうか。

 佐藤勝治さんのご遺族から預けられて、いまはわたしの手もとにあるヤスさんの写真や絵ハガキの写しは、イキさんが佐藤さんに託したものだったのです。

 イキさんのお孫さんが賢治の後輩で、わたしの先輩だったこと、ほとんどの先輩とは連絡をとらなくなっているのに、なぜか近況を確認し合っていたことが、ヤスさん、サトさん、イキさん、佐藤さんという、ひとの輪を明らかにしてくれました。

 いちどはなかったものになっていた、大畠ヤスさんと宮澤賢治の相思相愛の恋です。

 ヤスさんの存在を語り伝えようとする魂のつながりが、確かに存在していたことに、深く深く感謝したいと思います。

 ◆ ◆ ◆

 おしまいに、先輩から伺った熊谷イキさんのひととなりを、ご紹介します。

 熊谷イキさんは、「花巻ではちょっと目立ったお転婆さんで、ハイカラさんで、当時、町に3台しかなかったカメラを持ち、自宅にオルガンを所有していた音楽の先生」だったそう。

 おそらくは、お姉さんのサトさんも、ハイカラさんだったでしょう。そして、この姉妹と親しかったヤスさんもまた、ハイカラさんだったのだと想像します。

 3人は、新しいものが好きで、西洋の音楽や文学に詳しくて、自らも詩や童話を書いていて、ときに変人とも言われていた賢治の素敵さを、きちんと理解できる女性たちだったのです。

 縁とは、じつに面白いものです。高校や大学で先輩と接していたころは、こんなふうにおばあちゃんのことを語り合う日が来るとは思ってもいませんでした。

 若いころのひとの縁が、歳を重ねて意味を持つことがあるのですから、やはり歳をとるのも悪いものではありません。

 熊谷イキさん、先輩、ほんとうにありがとうございました。

熊谷イキさんがたいせつに持っていて、佐藤勝治さんに託したシカゴからのヤスの絵ハガキ。