九十九里浜

 小学校のころから、社会や地理の教科書でその名前だけは知っていた。

 東京での講演を終えた先日、さて帰ろうか、という段になって、にわかにその地名が頭から離れなくなった。

 思い立ったが吉日。

 行きたい行きたいと思っていても、実際に足を運ばなければ、ついにその景色を見ることなく、一生を終えてしまうかも知れない。

 そんな思いに駆られて、たどり着いたその浜は、名前に違わず広かった。

 そして、美しかった。

 ちゃんと調べたつもりが、日の出の時間を間違っていて、十分ほど遅れてしまったのだけれど、太陽はまだ、ついさっき昇ったばかり、という風情を残していてくれた。

 波の音は、三陸海岸で聴き慣れたそれとは、ずいぶんと違っていた。

 三陸のたいていの浜では、波はザッバーン! と寄せて、ザーッ……と返す。

 いっぽう九十九里浜では、寄せては返す波の音が、それほどには明瞭に聴き分けられない。

 浜全体が、ゴオーッと鳴っているのだった。

 面的な広がりがとてつもないため、波は、どこかでは寄せているけれども、どこかでは返している、というような状態なのだろうか。

 しかも、このゴオーッは、しだいに慣れて、聴こえなくなってゆく。確かに鳴っているのだが、極めて静かなのである。

 海鳴り、という言葉を思った。

 ほんとうの海鳴りがどういうものなのか、分かってはいないのだが、とにかく九十九里浜は、静かに鳴っていた。

 波に洗われた砂浜は滑らかに光って、鏡のように空を写していた。

 空と海とのあわいにある空間に、身を置くことができる。

 それは九十九里浜ならではの贅沢に違いない。

 浜ではシロチドリの群れがエサを啄んでいた。

 九十九里浜では、アカウミガメの産卵が見られる場所もあるという。地域ぐるみで浜の保護にとり組んでいることが、宿や産直など、立ち寄った先のあちこちで感じられた。

 美しい、と感じられる景色は、いのちの営みを伴っている。

 少なくともわたしにとって、美しいとは、そういうことなのだと確信した。

 貝殻拾いも、ぞんぶんに楽しむことができた。

 砂地にすむ巻貝のなかまキサゴの貝殻と、タコノマクラのなかまの殻を、たくさん拾った。

 ダンベイキサゴは「ながらみ」と呼ばれ、茹でて食されていた。現地でしか食べられないものに目がないわたしは、もちろん味見をした。

 九十九里浜は、大好きな場所のひとつになった。またきっと訪ねたい。