SNSではたくさんのひとが、「イマソラ」などとハッシュタグをつけて、空の美しさを発信しています。
自然を見て「きれいだ!」と感動することは、多くのひとにとって、日々に彩りをもたらすものでしょう。
「不思議だ!」と思えば、好奇心が刺激され、より深く見つめたり、本を調べてみたりして、知的な満足感を得られます。
そうして日々、目にした美しい空や、親しんだ生きものたちの姿から、励まされることはないでしょうか。
わたしは、あります。
あしたも、空はきれいだろうか。その空に、鳥は飛んでいるか、雲はどんなだろうか。足もとには、どんな草が生えていて、どんな花が咲くだろう。そしてそこに、虫は来ているだろうか……。
辛いことや悲しいことがあっても、空やいのちは美しく、その美しさの片鱗は、目を凝らしさえすれば、すぐ身の回りにあるのです。
わたしが、多くのひとに自然を見つめてほしいと呼びかけるのは、自然がかけがえのないもので、失われるべきではないという理由も然ることながら、自然に目を向けることで、ひとは、
あしたも生きよう
と、生きる力をもらうこともあるのだと思うからです。
書店に行けば、遠い外国の雄大な自然を切りとった写真や、アクセスの困難な秘境を訪れた紀行文に触れることができます。
わたしたちは、そういった作品を、「すてきねえ」と、憧れをもって眺めます。
エッセイは、フィクションを交えることを許さない文学ですから、エッセイストとして活動してゆくには、読者にとって容易には体験し得ない経験をし、それを記すという方法があります。
そしてもうひとつには、みんなと同じ日常のなかにいながら、多くの読者にとっては非日常である事柄を見つける、という方法があります。
宮澤賢治は、外国に強い憧れを抱き、鋭くアンテナを張って情報を収集していましたが、ついに日本を出ることはありませんでした。
ですから、後者の書き手と呼ぶことができます。
賢治の作品を、ファンタジーのように感じている方も多いことでしょう。しかし賢治は自らの作品を、自然のなかから貰ってきたのだと、くり返し述べています。
その作品はつまり、エッセイ的であり、自然を見つめる日々が、ファンタジーに匹敵するほどのこころの冒険をもたらすことを、物語っているのです。
日本を出ることなく、主に岩手の自然を見つめながら、美しい作品を残してくれた賢治に、わたしはこころから感謝します。
賢治の自然の言葉を追いかけると、わたしたちは、賢治がどのようにして自然のなかに分け入っていったかを、追体験することができるからです。
わたしたちが佇んでいる、いつものこの場所で、足もとに散りばめられた無数のいのちと、頭上に広がる宇宙の星々の存在を感じるとき、わたしたちは、いつものこの場所が、奇跡のように美しく壮大な世界の一部なのだと知るでしょう。
足もとの緑、身近な自然のすばらしさを知ると、遠い外国や、見知らぬ土地に行ったときにも、その場所を、いつもの場所と比較して見ることができます。
自然は深く、世界は広いのですが、それらをよく知りたいと思ったなら、まずは足もとを知ることではないかと、わたしは思うのです。
「いつもの雑木林が、まるで宝石でも散りばめられたように美しく見えた」
とは、賢治といっしょに野山を散策した生徒さんの語った言葉です。
賢治は、身近な自然を案内することの天才なのです。
◆
さまざまに論じられてきた宮澤賢治ですが、この本は、賢治を論ずるものではありません。
宮澤賢治の言葉は、難しく解釈することもできますが、より分かりやすく読み解き、よりたくさんのひとの役に立つようお届けするのが、わたしの願いです。
本日発売になりました『自然をこんなふうに見てごらん 宮澤賢治のことば』(山と渓谷社)が、どうかたくさんの方のお手もとに届きますように、祈りを込めて!
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