宮澤賢治 愛のうた 最終版

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第21回 ヤス、シカゴに死す

 ヤスが渡米したのちも、賢治はその面影を忘れられずにいました。

 それでもヤスが、アメリカで穏やかに暮らしていれば、いつしか胸の痛みも薄れていったことでしょう。

 ところがヤスは、渡米からわずか3年後の1927(昭和2)年4月13日の未明に、息を引きとってしまいます。

 シカゴ市内で行われた葬儀のようすは夫によりアルバムにまとめられ、大畠家に報告されました。

 ヤス死去の知らせは、ほどなく賢治の耳にも届いたようです。

 賢治は、1926(大正15)年の3月に花巻農学校を辞めると、8月23日に羅須地人協会を設立して、桜の別邸で暮らしていました。協会では、農家の求めに応じて施肥の指導をしたり、花巻温泉の依頼により花壇をこしらえたりしていました。

 ノート用紙に記されていたために便宜的に「詩ノート」と呼ばれる作品群のなかには、ヤスの死を知って書かれたと思しき心象スケッチが、いくつか見られます。

慟哭する賢治

 たとえば〔何もかもみんなしくじったのは〕は、ヤスの死からちょうど半月後、4月28日の日づけを持ちます。

 何もかもみんなしくじったのは
 どれもこっちのてぬかりからだ
 電燈が霧のなかにつきのこり
 川で顔を洗ふ子と
 橋の方では太くたつ町の黒けむり

「何もかもみんなしくじったのは/どれもこっちのてぬかりからだ」という叫びからは、賢治の強い後悔が伝わってきます。

 自らとの恋愛が原因となり、遠くアメリカで亡くなることになったのですから、後悔するのは無理もありません。

 けれども賢治にはそれ以上に、後悔する理由があったのではないかと、わたしは推察します。

 ノート用紙に「詩ノート」と呼ばれる作品群が記されるようになるのは、1926年の晩秋のことです。

 その冒頭は1926年11月4日の日づけを持つ「病院」という心象スケッチです。

   病院

 途中の空気はつめたく明るい水でした
 熱があると魚のやうに活潑で
 そして大へん新鮮ですな
 終りの一つのカクタスがまばゆく燃えて居りました

   (後略)

 この心象スケッチは、賢治自身が病院に行ったことを示すのかも知れません。

 しかし……。

 偶然とは思えないのは、1927年の4月に亡くなるヤスが、前年の秋には、すでに入院していたことです。ヤスは8月に男の子を出産すると、産後の肥立ちが悪く、そのまま入院していたそうです。

 すると、「終りの一つのカクタス」に例えられ、「まばゆく燃えて居りました」と記されるのは、あるいはシカゴのヤスではないでしょうか。

 愛しいひとを花に例えるのは、賢治のいつものやり方です。「カクタス」は「サボテン」の英名、サボテンは主にアメリカに分布する植物で、美しい花を咲かせます。

 では、賢治がシカゴのヤスの近況を知り得たのは、なぜなのでしょう。

 それは、盛岡高等農林時代に親しかった小菅健吉が、土壌微生物学を学ぶためアメリカに留学していたことと、無縁ではなさそうです。

 小菅は1918(大正7)年の9月に日本を離れると、サンフランシスコの日本人街に落ち着きますが、アメリカでの生活はままならず、翌年にはセレス、モントレー、ロサンゼルス、パサディナと、放浪の旅を続けることになります。

 さらに翌年の1920年にはオハイオ州のコロンバスに向かい、いちどはオハイオ大学に入学しますが学資が続かず、1921年にはミシガン州グランドラピッズにたどり着きます。ここで小菅はアメリカ人の女性と相思相愛の恋に落ちるなど、しばしの安定を得るようです。

 小菅のアメリカ生活は、当初の目的とはかけ離れたもので、挫折の連続だったと言ってよいでしょう。この間、小菅との書簡のやりとりを続けたのは保阪嘉内でした。小菅は保阪へのハガキで、

「宮澤は如何した。河本は?」

 などと、『アザリア』の仲間の近況を問うています。

在米時代の小菅健吉。『氏家町史 資料編 近代の文化人』より

 前に述べたように、保阪は賢治の親友とされ、賢治からの手紙も広く公開されています。

 しかし、実際には賢治と保阪、ふたりだけが特に親しかったのではなく、アザリアの仲間の中心に保阪がいて、みんなの連絡役を務めていたというのが正確でしょう。保阪に対しては、小菅も賢治と同じように、じつに率直な心情を吐露しています。

 グランドラピッズで会社勤めをして暮らしていた小菅に、父の訃報が届くのは1923(大正12)年の春でした。この年の9月1日には関東大震災も起こり、小菅は帰国を考え始めます。

 それでも小菅には資金もなく、すぐには帰国できませんでした。ようやく帰国したのは1926年10月4日のこと。11月には保阪に帰国を知らせる書簡を書き、帰国を知った河本からもハガキが届きます。

 そして賢治には、盛岡高等農林学校に帰国報告に訪れた足で花巻に向かい、直に面談していたのでした。

女の美しいプロファイル

 1925(大正14)年3月22日、小菅はアメリカからつぎのようなはがきを保阪に出しています。

 其の後は如何してるか? もう結婚もして了ったのか? 多分このハガキのつく頃迄ニハ大抵落ちついてる様ニなるだろう、この間シカゴに行った話ハ知ったかしら、素敵な美人ニ一生懸命ニなって行きかけてるのだ。其の内ニ進展したら知らせてやらう。

   (後略)

 1925年と言えば、ヤスの渡米の翌年、賢治がしきりにヤスのことを思い出しているころです。

 シカゴにいる素敵な美人とは、あるいはヤスのことではないでしょうか。

 グランドラピッズとシカゴの距離は、約300キロ。東京を中心に考えると、北なら仙台あたりまでの距離に相当します。

 もっとも、小菅から保阪に出された手紙やはがきの内容には、ずいぶんと自身の恋のことが書かれていますから、「素敵な美人」がヤスのこととは言い切れません。むろん、日系人社会のなかで、小菅がヤスの存在を知り得たか、そもそも小菅が賢治の恋を知っていたかも、定かではありません。

 ただし私信によれば、小菅あての賢治の書簡のなかには未発表のものが存在し、賢治関係者に託されましたが、何らかの事情により、現在では所在不明になっています。

 したがって、小菅と賢治が直に連絡をとり合っていた可能性や、小菅が賢治の恋を知っていた可能性は、決して否定できないのが現状です。

 万が一、小菅が賢治の恋を知っていたとすれば、アメリカを離れる前に、ヤスの安否を確かめたに違いありません。

 そして小菅がアメリカを離れるときには、ヤスは癒えることのない病の床についていたのです。

 花巻を訪ねた小菅が、賢治になにを語ったのか、その内容は想像するほかはありませんが、「詩ノート」が「病院」という心象スケッチから書き起こされる事実は、小菅の訪問を受けてのことだったのだと、わたしには思われます。

 さらに「詩ノート」の3作目には、「汽車」という心象スケッチが記されます。日づけは1927年の2月12日です。

  汽車

        プラットフォームは眩く寒く
        緑いろした電燈の笠
        きららかに飛ぶ氷華の列を
        ひとは偏狭に老いようし
        汽車が近づけば
        その窓がIce-fernで飾られもしよう

   (中略)

 ……これが小さくてよき梨を産するあの町であるか……
 ……はい閣下 今日は多量の氷華を産して居りまする……
 ……それらの樹群はみなよき梨の母体であるか……

   (中略)

        アカシアの木の乱立と
        女のそのうつくしいプロファイル
 もう幾百 目もあやに

   (後略)

 冒頭の「プラットフォーム」という言葉が地質用語であり、シカゴ一帯を指していることは、先に「孤独と風童」を読み解いたときに述べました。

 加えて「梨」という言葉が「ヤス」を暗喩することは、すでに何度も述べています。ここでは「小さくてよき梨」や「梨の母体」という表現から、ヤスが出産して母になっていることを彷彿とさせます。

「女のそのうつくしいプロファイル/もう幾百 目もあやに」

 という2行は、もはや説明するまでもないでしょう。賢治はくり返し、ヤスの面影を思い浮かべているのです。

黒いマントの恋人

 ヤスの死を知って、

「何もかもみんなしくじったのは/どれもこっちのてぬかりからだ」

 と賢治が慟哭する背景には、

(ヤスが体を壊していると知っていれば……)

 という思いがあったからではないかと、わたしは推察します。

 賢治はおそらく、小菅の報告によってヤスの病を知ったのでしょう。

 それは、ヤスより9歳年下の妹トシさんが、母親の潤さんと囲炉裏端でくつろいでいたときのことでした。トシさんは、夜遅くに帰宅したヤスが玄関先で倒れ、喀血するのを見たといいます。

 潤さんは、

「ヤスが倒れて血を吐いたことは、決して誰にも話してはならない」

 とトシさんに告げ、トシさんはそれを守りました。

 ヤスは日本にいるうちに、すでに体を壊していたのです。

 しかもヤスは、それを賢治にさえ秘して、アメリカへ旅立ったのだと、わたしには思われます。

 その病を知っていれば、賢治は渡米をもっともっと強く止めたでしょう。

 周囲の反対をものともせず、どうにかしてヤスと結婚したでしょうか。

 あるいは……。

 その病は自分からうつったのではないかと、ヤスとつき合ったことを後悔したかも知れません。

 賢治が『春と修羅』に、悲しい出来事を記さなかったように、ヤスもまた、賢治を悲しませぬよう、自らの病を告げなかったのではないかと、その心情を察します。

 いずれにしても、賢治にとってヤスの病と死が大きな衝撃だったことは、察するに余りあります。

 賢治は「詩ノート」のなかに、あふれる思いを記してゆきます。

 5月7日の日づけを持つ〔水いろの薄明穹のなかに〕では、「恋人」という言葉を使ってヤスについて書いています。かいつまんでご紹介しましょう。

   (前略)

 わたくしは遠い停車場の一れつのあかりをのぞみ
 それが一つの巨きな建物のやうに見えますことから
 その建物の舎監にならうと云ひました
 そしてまもなくこの学校がたち
 わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の
 舎監に任命されました
 恋人が雪の夜何べんも
 黒いマントをかついで男のふうをして
 わたくしをたづねてまゐりました
 そしてもう何もかもすぎてしまったのです

   (後略)

 花巻農学校は、賢治が努めていた4年間のうちはじめの2年は稗貫農学校と呼ばれ、花巻高等女学校に隣接していましたが、1923(大正12)年の春に花巻農学校と改称され、郊外に移転しました。

 新校舎は1922年の11月に完成し、旧校舎からの引っ越しは明けて2月に行われました。この年は雪が多く、3月半ばまで雪があったそうで、生徒は雪のなか、そりを用いて荷物を運んだことを記憶しています。

 1922年の11月と言えば賢治の妹トシが亡くなった月で、ヤスとの恋にかげりが見え始めたころと一致します。

 まだ生徒の入らない寄宿舎で舎監を務める賢治のもとを、兄のマントを借り、男のふりをして、ヤスが訪ねてきたのでしょう。雪の夜に寄宿舎を訪ねるなど、同じ花巻に住まう女性でなければできないことです。

「そしてもう何もかもすぎてしまったのです」

 という1行に、賢治の悲しみの深さが感じられます。また、

「黒いマントをかついで男のふうをして」

 という1行は、心象スケッチ「小岩井農場」に「くろいイムバネス」という言葉を忍ばせてヤスを表現していたことの説明にもなっています。

 ヤスが亡くなったことにより、賢治はいっそうの決意をもって、ヤスとの恋を書き残さねばならないと考えたのかも知れません。

 このころの作品には、『春と修羅』に記した事柄のうち当時は率直には書けなかったことについて、あとから説明を加えるような表現も散見されます。

 のちに、自身の年表を作って文語詩を書くようになるのも、そういった決意を反映しているのでしょう。もちろん賢治が書き残そうとしたのは、恋だけではありませんが、恋が最も大きな原動力になっていることは、間違いないと思われます。

涙ぐむ目

 6月1日の日づけを持つ〔わたくしどもは〕は、フィクションふうの作品です。

 わたくしどもは
 ちゃうど一年いっしょに暮しました
 その女はやさしく青白く
 その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
 いっしょになったその夏のある朝
 わたくしは町はづれの橋で
 村の娘が持って来た花があまり美しかったので
 二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
 妻は空いてゐた金魚の壺にさして
 店へ並べて居りました
 夕方帰って来ましたら
 妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
 見ると食卓にはいろいろな果物や
 白い洋皿などまで並べてありますので
 どうしたのかとたづねましたら
 あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
 ……その青い夜の風や星、
    すだれや魂を送る火や……
 そしてその冬
 妻は何の苦しみといふのでもなく
 萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました

「妻」という表現が見え、結婚生活が記されるため、この作品は完全なるフィクションで、賢治の心情を読みとることはできないと考える読者もいるようです。

 しかし、たとえフィクションでも、作者の心情が反映されていない文章はありません。「シグナルとシグナレス」に「あなたはきっと、私の未来の妻だ」という表現があるところから、ここで妻と呼んでいるのはヤスのことなのだと、わたしは考えます。

 冬の小岩井農場を、ふたりで訪れたと推測されるのは1922年の1月でした。トシが亡くなったあと、〔古びた水いろの薄明穹のなかで〕に記されるように、無人の寄宿舎で話し合いを重ねたと思われますが、ふたりの恋が春を迎えることはなかったのでしょう。

 ちょうど1年とは、ふたりが相思相愛だった期間を指していると考えるのが妥当です。

「そしてその冬/妻は何の苦しみといふのでもなく/萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました」

 という3行からは、妻と呼べる女性を失った事実を読みとることができます。

 日づけは少しさかのぼりますが、結婚というイメージを持つ心象スケッチとして1925年4月2日の日づけを持つ〔はつれて軋る手袋と〕を、あわせて紹介しておきたいと思います。

 まずは前半から。

    (前略)

 黒い地平の遠くでは
 何か玻璃器を軋らすやうに
 鳥がたくさん啼いてゐる
     ……眼に象って
        泪をたゝえた眼に象って……
 丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる
 ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて
 笹がすこうしさやぐきり
 たとへばねむたい空気の沼だ
 かういふひそかな空気の沼を
 板やわづかの漆喰から
 正方体にこしらへあげて
 ふたりだまって座ったり
 うすい緑茶をのんだりする
 どうしてさういふやさしいことを
 卑しむこともなかったのだ
     ……眼に象って
        かなしいあの眼に象って……
 あらゆる好意や戒めを
 それが安易であるばかりに
 ことさら嘲り払ったあと
 ここには乱れる憤りと
 病に異化する困憊ばかり

   (後略)

「ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする」

 という2行からは、結婚し、穏やかに年齢を重ねてゆくふたりの姿が思い浮かびます。それはヤスが、切に願ったことでした。

 けれども賢治はその提案を、

「それが安易であるばかりに/ことさら嘲り払った」

 のでした。

「どうしてさういふやさしいことを/卑しむこともなかったのだ」

 と悔やんでも、もはやヤスはいないのでした。

 ここで印象に残るのは、

「……眼に象って/泪をたゝへた眼に象って……」

 という表現です。くり返される「眼に象って」という言葉は、賢治が設計し、いまは盛岡少年院などに再現されている花壇「ティアフル・アイ」を想起させます。

 賢治が花壇設計に用いた「MEMO FLORA」ノートによれば、花壇「ティアフル・アイ」の黒目の虹彩は暗色のパンジー、白目はブラキコメ(宿根コスモス)のホワイト、瞳の部分にはやはりブラキコメのインディゴを指定しています。

 インディゴ、すなわち藍は、『春と修羅』の表紙を染めるのにも使われた、愛を象徴する色彩です。

忘れ得ぬ瞳

 ヤスが海を渡った1924(大正13)年ごろに書き出され、最晩年までくり返し改稿されていた「銀河鉄道の夜」には、「コロラドの高原」「インデアン」「新世界交響楽」など、アメリカを思わせる言葉が散りばめられている部分があります。

 コロラドの高原を走っていた汽車が谷底に見える川に向かって下りてゆくとき、乗客のひとりが言います。

「えゝ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易ぢゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向ふからこっちへは来ないんです。そらもうだんだん早くなったでせう。」

 思えば、渡米したヤスは、シアトルから汽車に乗ってシカゴへと向かったのでした。そのとき、すでに病を得ていたとは……。

「汽車は決して向ふからこっちへは来ないんです。」

 の1行に、賢治の悲しみがにじみます。

 また「銀河鉄道の夜」には、タイタニック号の沈没で亡くなったと思しき女の子が登場します。

 この女の子には、たとえば憧れのヘレン・タッピングなど、海を渡った女性のイメージが重ねられていると思います。

 そしてそのなかには、言うまでもなくヤスが含まれているでしょう。

 ヤスが海を渡ると知ったとき、賢治の脳裏には、その12年前に起こったタイタニック号の沈没事故が浮かび、

「どうか無事で……頼むから沈まないでくれ」

 と祈らずにはいられなかったはずなのです。

 その女の子が、銀河鉄道を降りてゆくシーンは、ヤスと最後に会ったときの思い出が重ねられているのではないでしょうか。

「ぢゃさよなら。」女の子がふりかへって二人に云ひました。
「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらへて怒ったやうにぶっきり棒に云ひました。女の子はいかにもつらそうに眼を大きくしても一度こっちをふりかへってそれからあとはだまって出て行ってしまひました。汽車のなかはもう半分以上も空いてしまひ俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。

 ああ、なんという寂しさでしょう。

 女の子のこの目こそは、賢治が設計した花壇「ティアフル・アイ」、涙をいっぱいに湛えたヤスの目なのだと、わたしには思われてなりません。

 賢治はこの女の子がはじめて登場する場面で、

「眼の茶色な可愛らしい女の子」

 と、わざわざ目の色を記しています。

 ふたりがまだ幸せのなかにいたころ、

「髪がくろくてながく/しんとくちをつぐむ」「頬がうすあかく瞳の茶いろ」

 と心象スケッチ「春光呪咀」に記されたその面影が、賢治のこころから消えることは、生涯なかったのだろうと思います。

2022年6月13日更新(つづく)