
2018年に出版した『新版 宮澤賢治 愛のうた』(夕書房)において、わたくしは宮澤賢治の恋人、大畠ヤスさんの渡米について、1人でアメリカ行きの船に乗ったと推察しており、ヤスさんのアメリカでの結婚相手については、「岩手出身の海軍大臣、及川古志郎の血縁の医師で、名前は及川修一」とのご遺族の証言を紹介しておりました。
この内容について、2019年に新たな事実が報告されました。その事実と、『新版 宮澤賢治 愛のうた』の記述との違いについては、著者として説明責任があるというご意見を頂戴し、『宮澤賢治 百年の謎解き』(T&K Quattro BOOK)において検討を行いました。
しかしながら『宮澤賢治 百年の謎解き』はアマゾンのオンデマンド出版システムを利用したもので、広く多くの方に読んでいただくには及びませんでした。
いっぽう、『新版 宮澤賢治 愛のうた』は美しい造本から、いまも愛してくださる読者さんがいらっしゃいます。またこの本で、賢治が恋をしていたという事実にはじめて触れる方がおられることを踏まえ、ここで改めて、『新版 宮澤賢治 愛のうた』内の記述と事実との違いについて、説明しておこうと思います。
以下は『宮澤賢治 百年の謎解き』の一部を要約して掲載するものです。
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宮澤賢治の恋人、大畠ヤスさんの存在を発見した賢治研究家・佐藤勝治さんの遺品には、賢治との恋に破れ、他の縁談を受け入れて渡米したヤスが、アメリカから出したはがきの写真が含まれていました。
消印はシカゴ、日づけは7月9日です。
シヤトルから三昼夜十一時間でシカゴにつきました。誰れも迎へてくれるなつかしい人もなく淋しいガランとした古い建物が私たちの住む所でした 勿論うつったばかりでよごれてなにも飾りもありません、これから二人でお掃除から何からやります。
二日の朝ついたのですが忙しいのでつい失礼しました 出帆の時は色々と有難う御座いました。唯なつかしう御座います、たゞ一人だったのですもの……
空気と水の悪いのが悲しくて〳〵 散歩に出ようにも異国のことで私には冷たく感じられてなりません。
結婚して渡米したはずのヤスのはがきに、
「たゞ一人だったのですもの……」
という文が見られることから、わたしは当初、ヤスが単身でアメリカ行きの船に乗ったものと推察しました。
ヤスのご遺族の証言のなかに、
「ヤスは花巻の呉服店で見そめられた。相手は岩手出身の海軍大臣、及川古四郎の血縁の医師で、名前は及川修一」
という情報もあったため、ヤスの結婚相手はそれなりに地位も財力もあり、ヤスがひとりだったとしても、安全に渡航できる術があったのだろうとも考えました。
したがって2018年に出版した『新版 宮澤賢治 愛のうた』(夕書房)には、冒頭で説明した内容を記した次第です。
この記述に疑問を持った研究者が、『新版 宮澤賢治 愛のうた』出版の翌年、ヤスの渡米についての詳細な報告を論文(参考文献1)として発表なさいました。
その結果、ヤスはアメリカから迎えに来た夫、シカゴで旅館業を営む及川末太郎と2人で船に乗っていたことが判明しました。さらに、ヤスと末太郎のあいだに生まれた息子の名前が「shuichi(しゅういち)」であったことが分かりました。
以下は、新たに発見された事実を踏まえてのわたしの推測です。
まず第一に、ヤスのご遺族が夫の名前として記憶していた「修一」は、おそらくは息子のものでした。
また、迎えに来た夫がおり、実際には1人ではなかったのに、
「たゞ一人だったのですもの……」
と書いた理由は、「賢治と離れてひとり」という、あくまでも精神的な意味だったものと考えられます。あるいは、見送りに来てくれたひとの人数が「ひとりだけだった」と読みとることもできるでしょう。もしもそうであれば、ヤスはやはり、もうひとり……賢治の姿を探していたのではないかと思われます。
ヤスの出したはがきの宛名は、「晴山吉郎」でした。
晴山は、ヤスのすぐ下の妹、大畠ヤオの夫となる人物です。晴山もヤオも教師で、当時としては珍しい自由恋愛でした。
お互いに自由恋愛をしていたことから、晴山は、賢治とヤスに対して、何か助けになれることはないかと、力を尽くしたのではないかと思われます。晴山の専門は「社会」で、趣味は「旅行」でした。その晴山が見送りに来ていたことは、ヤスのアメリカ行きに晴山が絡んでいた可能性を示唆しています。
賢治は教え子の前でアメリカの地図を広げ、
「俺はアメリカに行って百姓になりたいんだよ」
と語っていました。賢治も一度は、アメリカ行きを考えたのでしょう。ですが賢治は、結局のところアメリカには行きませんでした。いっぽうヤスは、賢治がいなくても渡米する意志を固めていたものと推察されます。
晴山は当初、賢治とヤスのふたりを送り出すつもりだったかも知れません。「ひとりでも行く」と言うヤスだけを横浜港で見送ることになったのは、たいへん不本意な結果だったろうと思われます。
ヤスのご遺族のなかには、結果としてヤスがアメリカに渡り、わずか3年で命を閉じたことについて、
「賢治はヤスを、ほんとうに愛していたのだろうか」
という懸念を抱いていた方や、
「ヤスは可哀そうだったから、もう話したくない」
と口をつぐんでいた方がいました。
したがって、ヤスの渡米に関する遺族の証言が事実と異なっていたことについて、わたくしは、遠い過去のことで記憶もおぼろげになっていたとばかりは考えておりません。事実を知る方々は口をつぐみ、詳しい事情を知らない親族には、「ヤスは呉服屋で見そめられた」という話が、おとぎ話のように語られたものと推察いたします。
また『シカゴ日系百年史』には、ヤスの結婚相手となった及川末太郎は「海軍大臣及川古志郎のいとこ」と自称していたことが記されています。岩手県出身者で及川となれば、誰しもそのような冗談を口にしたものかも知れませんが、遺族に伝えられていた話が、まったく根も葉もないものとは言い切れません。
晴山がついていたからには、相手の身もとなども検討したうえでの縁談だったはずです。ヤスの事情を、ある程度は先方に明らかにしていた可能性も、否定はできません。ヤスは気丈なひとだったと伝えられます。外国に憧れる賢治に代わって、アメリカという国をひと目でも見てやろうと、覚悟を決めて船上のひととなったことも想像に難くありません。
「銀河鉄道の夜」で、宇宙を走っていた銀河鉄道が、後半、にわかにコロラドの高原に降りるのは、ヤスの魂を乗せるためだったと、わたしには思われます。賢治の作品で、アメリカの影響が見られるものは数多く存在します。ヤスとの恋は、妹トシの死とともに、賢治文学の根幹をなすものであり、ヤスの存在を抜きにして、賢治の文学を論じることは難しいものと考えます。

『宮澤賢治 百年の謎解き』(T&K Quattro BOOK)は、『新版 宮澤賢治 愛のうた』(夕書房)の内容を巡って頂戴したさまざまなご意見への回答という意味合いがあり、文章が反論めいていたり、冗長に過ぎたりいたしますが、それも含めて、わたくしのここまでの道のりと考えております。宮澤賢治の恋について興味をお持ちの方は、ご一読いただければ幸いです。
◆参考文献
1、「ある花巻出身者たちの渡米記録について」 布臺一郎 『花巻市博物館研究紀要』第14号 2019年
2,『シカゴ日系百年史』 伊藤一男 シカゴ日系人会 1986年