2月21日、宮澤賢治のふるさとであり、りんごの産地である花巻市にうかがいました。
JA花巻さんの果樹部会「りんごたちの応援大会」で、基調講演を務めさせていただくためです。
JA花巻さんでは、「ふじ」りんごのうち、蜜や糖度などの厳しい条件をクリアしたものを「賢治りんご」としてブランド化しています。
そこで講演では、「賢治りんごは幸せの味」と題し、宮澤賢治が「世界のみんなの幸せを願う気持ち」をりんごに込めていたこと、したがって花巻のりんごは、賢治の思いとともに大いに世界にはばたいてほしいことを語りました。
林檎と苹果
「りんご」を漢字で書くとき、賢治はほとんど「苹果」と書きます。
この苹果という表記は、正確には「セイヨウリンゴ」を指すものです。
いっぽう、りんごの漢字表記としてより一般的な「林檎」は、明治以前にすでに日本に存在していた小粒の和りんごを指す言葉です。
セイヨウリンゴは、明治時代にアメリカから導入されたもので、当時の代表的な品種としては、「紅玉(ジョナサン)」や「国光(ロールス・ジャネット)」が知られています。
わたしたちが、いま食べているりんごは、ここから品種改良されたもので、ふるさとはアメリカであると言ってよいでしょう。
わたしも岩手大学農学部で果樹園芸学を学び、このことを知ったときは、紅玉をわざわざ「ジョナサン」と呼んで得意になっていました。
◆
海外に憧れていた賢治でしたが、わけてもアメリカは特別な国です。
拙著の読者さんは、すでにご承知の方も多いと思いますが、宮澤賢治は花巻農学校で教師をしていた1922年、近所に住む小学校教師の大畠ヤスさんと相思相愛の恋をしていました。
その恋は、主に周囲の反対によって実らず、ヤスさんは、他の男性との縁談を受け入れて1924年6月に渡米してしまいます。
以来アメリカは、賢治にとって愛しいひとの暮らす国になっていたのです。
また、これはわたしの深読みですが、周囲の反対に耐えかねたふたりは、いっそ駆け落ちをして、アメリカで暮らしたいと夢見たことがあったものと思われます。
したがって、賢治にとってセイヨウリンゴは、愛しいひとと家庭を営むという、見果てぬ夢の象徴でもあったのだと、わたしは考えています。
ドラマ「宮澤賢治の食卓」
2017年にWOWWOWで放送され、いまはDVDで見ることができるドラマ「宮沢賢治の食卓」は、のちに大河ドラマ「せごどん」で西郷隆盛を演じる俳優の鈴木亮平さんが、宮澤賢治を演じて話題になった作品です。
賢治にまつわる女性と言えば、妹のトシさんが唯一の存在のように描かれることが多いなか、「宮沢賢治の食卓」は、賢治が相思相愛の恋をしていたことを、はじめてドラマに盛り込んだ画期的な作品です。
その作品解説に、
「いとしの君・ヤス(市川実日子)とのかけがえのない出会いにも恵まれる」
という一文があるように、ヤスさんは、市川実日子さんが演じてくださいました。
ドラマの監督は 御法川修さんで、原作は魚乃目三太さんの漫画『思い出食堂』(少年画報社)でした。
魚乃目三太さんは、岩手で細々と「宮澤賢治は恋をしていました」と発信していたわたしの考えを信じてくださり、ストーリーに組み入れてくださったのです。
宮澤賢治の一般的な年譜では、まったく触れられてこなかったヤスさんの存在を、よくぞ漫画にしてくださったものだと、魚乃目さんにはこころから感謝しています。
賢治とヤスのデートメニューは焼きりんご
魚乃目三太さんの漫画は、食にまつわるエピソードをストーリーに絡めるのが特徴です。
したがって、ヤスさんと語らうシーンでも、何らかの食べものが登場するわけですが、それが「焼きりんご」であったことに、わたしはつくづくと感心しました。
わたしには、ふたりがデートで食べたものなど知る由もなく、むろん本にも何も記していません。ですから焼きりんごというメニューは、魚乃目三太さんの推理によって導き出されたものでしょう。
花巻農学校の校舎が移転して、生徒が入る前の寄宿舎に、賢治が舎監として泊まり込んでいるとき、
「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついて男のふうをして/わたくしをたづねてまゐりました」
とは、賢治自身が心象スケッチ〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕に書き残していることで、そこまでは、わたしの本にも書いていました。
寒い夜のことだから、賢治はストーブを焚いて待っているだろう。
魚乃目さんは、そう推理されたのでしょうか。
ドラマでは、鈴木亮平さん扮する賢治と、市川実日子さん扮するヤスが、ストーブで焼いたりんごを幸せそうにほおばるシーンがたいへん印象的でした。
そのりんごの切り方が、ごく一般的な「くし形」ではなく、「輪切り」にした「スターカット」であったことも、いかにも賢治らしく、魚乃目さんの漫画には、さすがと唸るほかはありません。

賢治作品に描かれるりんごの蒸気
賢治とヤスを結ぶ思い出のメニューが焼きりんごであろうという発想は、賢治作品に描かれるりんごが、しばしば温められて蒸気を発していることからも、じつに妥当と考えられます。
たとえば「氷と後氷(習作)」は、あまり有名ではありませんが、賢治と思しき男性が、パートナーと子どもを伴って汽車に揺られ、北から南に移動している短編です。岩手県も通ります。
家族はどこから来て、どこに向かっているのでしょう。
あるいは北アメリカからベーリング海峡を渡って、日本に戻ってきたのではないか……。
わたしは「氷と後光(習作)」を、
(もしもアメリカからヤスさんを連れ戻せるものなら……)
という、賢治の切なる願いが反映された作品と考えています。そしてその思いは、「銀河鉄道の夜」にも通底しているのです。
冒頭を少し引用してみます。
「氷と後氷(習作)」 「ええ。」 雪と月あかりの中を、汽車はいっしんに走ってゐました。 赤い天鵞絨の頭巾をかぶったちひさな子が、毛布につつまれて窓の下の飴色の壁に上手にたてかけられ、まるで寢床に居るやうに、足をこっちにのばしてすやすやと睡ってゐます。 窓のガラスはすきとほり、外はがらんとして青く明るく見えました。 「まだ八時間あるよ。」 「ええ。」 若いお父さんは、その青白い時計をチョッキのポケットにはさんで靴をかたっと鳴らしました。 若いお母さんはまだこどもを見てゐました。こどもの頬は苹果のやうにかがやき、苹果のにほひは室いっぱいでした。その匂は、けれども、あちこちの網棚の上のほんたうの苹果から出てゐたのです。實に苹果の蒸氣が室いっぱいでした。 「ここどこでせう。」 「もう岩手縣だよ。」 「あの山の上に白く見えるの雲でせうか。」 「雲だらうな。しかし凍ってゐるだらうよ。」
子どもの頬はりんごのように輝き、汽車の客室はりんごの蒸気でいっぱいです。
ヤスさんを描写したと思われる心象スケッチ「春光呪咀」によると、ヤスさんは、「口をしんとつぐむ」ひとでした。
そして賢治の写真を見ると、お世辞にも歯並びがよいとは言えません。それを受けてか、「氷と後光(習作)」には、つぎのような一節もあります。
「今夜は外は寒いんでせうか。」 「そんなぢゃないだらう。けれども霽れてるからね。こんな雪の野原を歩いてゐて、今ごろこんな汽車の通るのに出あふと、ずゐぶん羨しいやうななつかしいやうな變な氣がするもんだよ。」 「あなたそんなことあって。」 「あるともさ。お前睡くないかい。」 「睡れませんわ。」 若いお父さんとお母さんとは、一緒にこどもを見ました。こどもは熟したやうに睡ってゐます。その唇はきちっと結ばれて鮭の色の谷か何かのやうに見え、少し鳶色がかった髮の毛は、ぬれたやうになって額に垂れてゐました。 「おい、あの子の口や齒はおまへに似てるよ。」 「眼はあなたそっくりですわ。」 山の雪が耿々と光り出しました。と思ふうちにいきなり汽車はまっ白な雪の丘の間に入りました。月あかりの中に、たしかにかしはの木らしいものが、澤山枯れた葉をつけて立ってゐました。
少なくともこの作品のなかで、宮澤賢治は子どもを持つ人生を否定してはいません。
もしも、ふたりのあいだに子どもが生まれていたなら、
(口と歯は、ヤスさん、君に似ているといい)
と記しているのです。

「銀河鉄道の夜」のなかのりんご
賢治にとって、りんごがどんなに重要なものだったかは、有名な「銀河鉄道の夜」のなかに、6か所も出てくることからも分かります。
以下に、その6か所を引用してみます。先をお急ぎの方は、つぎの見出しにお進みください。
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1回目は、「天気輪の柱」という章です。主人公のジョバンニは、まだ「銀河鉄道」に乗っていません。
ひとり、町はずれの丘に登ったジョバンニは、遠く夜汽車を眺めています。
町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのようにともり、子供らの歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはずれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。 そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしていると考えますと、ジョバンニは、もう何とも云えずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。 あああの白いそらの帯がみんな星だというぞ。
汽車のなかで、ひとびとがりんごをむいているイメージは、「氷の後光(習作)」の車室に満ちたりんごの匂いを彷彿とさせます。
◆
2回目は、「北十字とプリオシン海岸」という章です。主人公のジョバンニと、友人を助けたためにいのちを失った友人のカムパネルラは、すでに銀河鉄道に乗っています。
ここで賢治は、「北十字」すなわち「白鳥座」を、きらびやかな宝石や草の露に飾られた美しい「十字架」に見立てています。そして乗客の多くは祈ります。
「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の珠数をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈っているのでした。思わず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬は、まるで熟した苹果のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。
ここではカムパネルラの頬が、りんごのように輝いています。
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客室に、りんごの匂いがしてきます。これも、「氷と後光(習作)」のイメージそのままです。
ただし「銀河鉄道の夜」でいっしょに旅をするのは、若いお母さんではなく、タイタニック号の沈没でいのちを失ったと思しき女の子です。
「何だか苹果の匂においがする。僕いま苹果のこと考えたためだろうか。」カムパネルラが不思議そうにあたりを見まわしました。 「ほんとうに苹果の匂だよ。それから野茨の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジョバンニは思いました。 そしたら俄にそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたような顔をしてがたがたふるえてはだしで立っていました。隣には黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹ふかれているけやきの木のような姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。 「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり十二ばかりの眼の茶いろな可愛いらしい女の子が黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議そうに窓の外を見ているのでした。
さきに紹介した心象スケッチ「春光呪咀」で、賢治はヤスさんを「瞳の茶色」と描写しています。ここに登場する女の子が、「目の茶いろな可愛いらしい」と書かれているのは、決して偶然ではないのでしょう。
また、「黒い外套」を着ているのも、〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕に記されるとおり、賢治にとっては「恋人」を象徴するものです。
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4回目は、りんごが主役です。
銀河鉄道に乗り合わせた灯台看守が、金と紅で彩られた美しいりんごをみんなに配るのです。
のちにりんごの品種改良が進み、大きくておいしく、美しいりんごが、さまざまに作出されることを、賢治は予想していたのでしょう。賢治も学んだ盛岡高等農林学校の後身である岩手大学農学部からも、「はるか」が産み出されています。
「いかがですか。こういう苹果はおはじめてでしょう。」向うの席の燈台看守がいつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないように両手で膝ひざの上にかかえていました。 「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。ここらではこんな苹果ができるのですか。」青年はほんとうにびっくりしたらしく燈台看守の両手にかかえられた一もりの苹果を眼を細くしたり首をまげたりしながらわれを忘れてながめていました。 「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」 青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。 「さあ、向うの坊ちゃんがた。いかがですか。おとり下さい。」 ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまっていましたがカムパネルラは 「ありがとう、」と云いました。すると青年は自分でとって一つずつ二人に送ってよこしましたのでジョバンニも立ってありがとうと云いました。 燈台看守はやっと両腕があいたのでこんどは自分で一つずつ睡っている姉弟の膝にそっと置きました。 (中略) にわかに男の子がぱっちり眼をあいて云いました。 「ああぼくいまお母さんの夢をみていたよ。お母さんがね立派な戸棚や本のあるとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか云ったら眼がさめちゃった。ああここさっきの汽車のなかだねえ。」 「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が云いました。 「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」 姉はわらって眼をさましまぶしそうに両手を眼にあててそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを喰べるようにもうそれを喰べていました、また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜ぬきのような形になって床ゆかへ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまうのでした。 二人はりんごを大切にポケットにしまいました。
「ここらではこんな苹果がとれるのですか」
というせりふは、銀河鉄道がりんごのふるさとアメリカに向かっていることの伏線と思われます。
◆
そしていよいよ5回目で、宇宙を走っていたはずの銀河鉄道は、アメリカの野原に下りてゆきます。
そこへ流れてくるのは、「新世界交響楽」の旋律でした。
その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしずかなしずかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。 そしてまったくその振子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れて来るのでした。「新世界交響楽だわ。」姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと云いました。全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。 (中略) そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹き、女の子はまるで絹で包んだ苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。
「新世界交響楽」は、ご存じのとおりドヴォルザークの作曲ですが、アメリカでは1922年に、この旋律に歌詞をつけた曲が「ゴーイングホーム」として歌われていました。賢治はこのことを知っていたのか、1924年に、やはりこの曲に「種山が原」という歌詞をつけて、生徒たちと歌っています。クラシックの曲に歌詞をつけて歌うということを、日本ではじめて試したのが宮澤賢治でした。
遠い野原のはてから「ゴーイングホーム」の旋律が糸のように流れてくるコロラドの高原で、茶色い目をして黒い外套を着た女の子は、絹で包んだりんごのような頬をしていました。
賢治はヤスさんという「りんご」を、絹で包んでポケットに入れて連れて帰りたかったことでしょう。
宇宙を走っていた銀河鉄道がわざわざアメリカに下りるのは、アメリカで亡くなったヤスさんの魂を迎えに行く目的もあったのだと、わたしは考えます。
◆
そして6回目は、銀河鉄道が「サウザンクロス」すなわち「南十字星」に着く場面です。
賢治は、南十字星を「十字架」に見立てたうえで、そのうえに浮かぶ環のような雲を、りんごの果肉に例えています。
ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜に飛びついたときのようなよろこびの声や何とも云いようない深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のような青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞めぐっているのが見えました。
ここでキリスト教を信じるひとびとは、銀河鉄道を降りてゆきます。あの女の子と弟、つき添いの青年もまた……。
アメリカで亡くなったヤスさんについて、賢治は現地の教会などで葬られたものと考えていたのかも知れません。
ジョバンニは女の子を引き止めようとしますが、その気持ちを変えることができません。
「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとおった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯あかりのなかを汽車はだんだんゆるやかになりとうとう十字架のちょうどま向いに行ってすっかりとまりました。 「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。 「じゃさよなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。 「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて怒ったようにぶっきり棒に云いました。女の子はいかにもつらそうに眼を大きくしても一度こっちをふりかえってそれからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまい俄にがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹ふき込こみました。
賢治とヤスさんが、ついにその恋を諦めるとき、ヤスさんもまた、その目を辛そうに大きくして、
「じゃ、さよなら」
と言ったのではないでしょうか。
◆
以上のように、りんごは「銀河鉄道の夜」のなかに6か所も登場し、その場面の多くは、ヤスさんの面影を宿す女の子と分かち難く結びついているのでした。
クラムボン賢治
さて、これも拙著の読者さんであれば、すでにご承知のことかも知れませんが、宮澤賢治はヤスさんの名前を、いまのラップのように、母音で韻を踏む言葉のなかに隠しています。
妹のトシさんであれば、誰はばかることなく「トシ」「トシ」とその名前を書けたでしょうが、壊れた恋の相手となれば、そうはいきません。
「クラムボン」とは、「韻を踏む言葉を探す遊び」という意味の「クラムボウ」をもじった造語で、「韻を踏む言葉を探す者」すなわち「恋する賢治自身」を指すというのが、わたしの考えです。
愛しい恋人の名前「ヤス」は、「春」「まつ」「からまつ」「ジャズ」「羅須」そして「クラムボンはかぷかぷわらったよ」の「かぷ」など、母音を同じくする言葉に変えられて、作品のなかに散りばめられました。
そう考えると、りんごを「アップル」と英語にしたとき、ヤスと同じ母音を持つことは、賢治にとって、また「銀河鉄道の夜」のなかで、重要な意味を持っていたのかも知れません。
北十字や南十字で、唱えられる「ハレルヤ」が、「ハルレヤ」と文字順を変えられていることも、その母音に関係している可能性があります。
賢治は、ヤスさんの名前を記せるものなら、子どもの言葉遊びのようなことでもしたでしょう。
アメリカのヤスに
では、つぎの文語詩の冒頭1行目が、
「言う、アメリカのヤスに」
と読めることは、わたしの気のせいでしょうか。
どうか皆さまも、お読みください。
〔夕陽は青めりかの山裾に〕 夕陽は青めりかの山裾に ひろ野はくらめりま夏の雲に かの町はるかの地平に消えて おもかげほがらにわらひは遠し ふたりぞたゞのみさちありなんと おもへば世界はあまりに暗く かのひとまことにさちありなんと まさしくねがへばこころはあかし いざ起てまことのをのこの恋に もの云ひもの読み苹果を喰める ひとびとまことのさちならざれば まことのねがひは充ちしにあらぬ 夕陽は青みて木立はひかり をちこちながるゝ草取うたや いましものびたつ稲田の氈に ひとびと汗してなほはたらけり
おそらく、気のせいではありません。
この文語詩は、ヤスさんに捧げられたものでしょう。
ふたりだけで幸せになろうとしたとき、周囲は暗く、ふたりを拒絶しました。
ヤスさんが遠くに旅立ってしまっても、かのひとに幸いあれと祈るとき、賢治のこころは明るくなりました。
海の向こうの愛しいひとが幸せでいるためには、世界が平和でなければなりません。
愛しいヤスさんがアメリカに旅立ってしまったことは、賢治にとって悲しい出来事ではありましたが、それゆえに視線が広がり、やがて、
「世界がぜんたい幸せにならないうちは個人の幸福はあり得ない」
という重要な思想に結びついていったことは、〔夕陽は青めりかの山裾に〕 を読めば明らかではないでしょうか。
「いざ起てまことのをのこの恋に
もの云ひもの読み苹果を喰める
ひとびとまことのさちならざれば
まことのねがひは充ちしにあらぬ」
という4行に記されているように、賢治のなかで「恋」と「りんご」、さらに「ひとびとの幸い」は強く結びついています。
りんごは、みんなの幸せを願う賢治のこころとつながっていると言えるでしょう。

星のかたちはアメリカの国旗
宮澤賢治は星が好きでしたが、星形をしたものも好きでした。
たとえば、これも賢治が自らの恋を作品化したと思われる「シグナルとシグナレス」というおはなしのなかに、周囲に反対されて窮地に立ったシグナルとシグナレスが、こっそりと別の星に行ってふたりきりになるシーンがあります。
目の前には海が見えるのですが、そこにいるのは、ウニとヒトデとナマコです。せっかくふたりきりで訪れた海に、熱帯魚でもサンゴ礁でもなく、ウニとヒトデとナマコとは、いささか奇妙ですが、これには、ちゃんと理由があります。
それは、これら3種の生きものが、いずれも「棘皮動物」に属しているということです。
棘皮動物の特徴は、体の断面が「5角形」をしていることです。
ふたりきりで、こっそりと訪れた青い星、その海のなかにはウニとヒトデとナマコ。
このことは賢治とヤスが、
「ふたりでアメリカに行って暮らしたい」
と、いちどは夢見たことを物語っていると、わたしは考えます。
くり返し登場する星の形は、アメリカの国旗に描かれた星を示唆しているものと思われるからです。
この海辺に着いたとき、シグナルは言います。
「いつたいあの十三連なる星はどこにあつたのでせう、こんな星は見たことも聞いたこともありませんね。僕たちぜんたいどこに来たんでせうね」
アメリカの国旗に描かれた星は州の数を示し、国旗が制定されたばかりのころ、州の数は13で、したがって国旗の星の数も13でした。
りんごの星
断面が5角形をしていることは、賢治にとって、とても重要な意味を持ちます。
ですからアメリカ原産のりんごを輪切りにすると、アメリカ国旗に描かれている星の形が現れることは、賢治にとっては大きな魅力だったに違いありません。
冒頭に紹介した「宮沢賢治の食卓」のなかで、賢治とヤスが食べていた焼きりんごが、輪切りのスターカットであったことは、じつに深く賢治の思いを読みとったものだったと、言わざるを得ません。
花巻の「賢治りんご」をスターカット改め「賢治カット」にしてみんなで味わうことは、賢治の意に沿うことだと思います。
花巻産のみならず、どうか皆さま、りんごを輪切りにして、賢治も見ていたであろう「りんごの星」をご覧くださいませ。
◆
おしまいに、「銀河鉄道の夜」より、りんごの場面を朗誦伴奏したYouTubeをお聴きください。
講演にも、ベーシスト石澤由松による伴奏がつき、内容にちなんで「イグザクトリー・ライク・ユー(君にそっくり)」や「リトル・グリーン・アップルス(小さな青いりんご)」などが演奏されました。
また、宮澤賢治の恋についての読み解きは、拙著『宮澤賢治 百年の謎解き』(T&K Quattro BOOK)が最新です。よろしければ、あわせてお読みくださいませ。
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